6. 王都へ向かう支度
エリアナは机の前に座ったまま、もうしばらく便箋を見つめていた。
ルシアンから届いた手紙への返事を書こうと思ったものの、最初の一文がなかなか決まらない。
祖母が生きていた頃は、ときどき村の人に頼まれて手紙を代筆することもあった。薬の飲み方を説明する手紙なら、今でも迷わず書ける。
けれど、公爵様への返事となると話は別だった。
「……拝啓、でいいのかしら」
声に出してみる。
何となく堅苦しい。
もう少し親しみのある書き方がいい気もするけれど、相手は公爵様だ。失礼になってはいけない。
エリアナは机の引き出しから古い手紙の束を取り出した。
祖母が村の人たちと交わしていた手紙である。
薬の注文や季節の挨拶がほとんどだが、その中に一通だけ、立派な封筒に入ったものがあった。
差出人の名前はない。
ただ、表には美しい金色の紋章が押されていた。
「……これ、何だったかしら」
以前にも見た覚えはあったが、内容までは思い出せない。
封筒から便箋を取り出すと、そこには短い文章が記されていた。
『長らくご無沙汰しております。お変わりなくお過ごしでしょうか。
お約束の件につきましては、今も変わらず守られております。どうか、ご安心ください』
署名はなかった。
エリアナは首を傾げた。
お約束とは、何のことだろう。
祖母は王都に知り合いがいると話していたことがある。もしかすると、その人から届いた手紙なのかもしれない。
しばらく眺めていたが、今考えてもわからない。
エリアナは便箋を元の封筒に戻し、引き出しへしまった。
「まずは、ルシアン様へのお返事ね」
新しい便箋を広げ、ペンを取る。
何度か書き出しを考えたあと、ようやく文字を綴り始めた。
『ルシアン様
お手紙をありがとうございます。
お元気にお過ごしとのことで、安心いたしました。
お薬もお役に立てたようで嬉しいです。
王都へのご招待、本当にありがとうございます。
ぜひ伺いたいと思っています。
ただ、数日ほど薬草の手入れと村へのお薬の配達がありますので、それが終わってからでもよろしいでしょうか。
図書館へ行けることも、とても楽しみにしています。
それから、リュシーも一緒に連れていってよろしいでしょうか。
少し賑やかな子ですが、悪いことはしないと思います。
またお会いできる日を楽しみにしております。
エリアナ・フィオーレ』
最後まで書き終えると、エリアナは最初から読み直した。
難しい言葉は使っていないけれど、伝えたいことは書けたと思う。
「……これでいいわね」
満足して便箋を折りたたむ。
そのとき、窓の外から小さな鳴き声が聞こえた。
顔を上げると、昨日手紙を届けてくれた青い羽の鳥が、窓枠に止まっていた。
「あら。まだいてくれたの?」
窓を開けると、鳥は軽やかに室内へ入ってきた。
机の上に降り立ち、首を傾げる。
「お返事をお願いしてもいいかしら」
エリアナが封筒を差し出すと、鳥は小さく鳴いた。
どうやら、待っていてくれたらしい。
足元に結ばれた小さな革袋へ手紙を入れると、鳥は羽を広げた。
「気をつけてね」
エリアナは窓辺まで見送り、飛び立つ姿を眺めていた。
青い光が木々の間を抜け、やがて見えなくなる。
「……早く届くといいな」
そうつぶやいてから、エリアナは自分の言葉に少し驚いた。
手紙が届くのを、こんなに楽しみにしたことがあっただろうか。
◇
翌朝、エリアナは村へ向かう準備をしていた。
籠には注文されていた薬瓶を並べ、割れないよう柔らかな布で包んでいる。
風邪薬、傷薬、疲労回復の薬。
それから、膝を痛めている村長のために作った塗り薬も入れた。
「リュシー、忘れ物はないかしら」
「お菓子!」
「……それは昨日も言っていたでしょう」
「だって、歩いてたらお腹が空くもん!」
エリアナは笑いながら、小さな袋に焼き菓子を詰めた。
「はい。これでいい?」
「うん!」
リュシーは満足そうに頷いた。
フィルネの森から最も近い村までは、歩いて一時間ほど。
道はそれほど険しくないが、途中には小さな川が流れており、雨の翌日などは少し歩きづらくなる。
今日は幸い、朝からよく晴れていた。
エリアナは家の戸締まりを確かめ、籠を腕に掛ける。
「それじゃあ、行きましょう」
リュシーが嬉しそうに飛び上がった。
森の小道には、柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
エリアナは道端に咲く花を眺め、ときどき足を止めながら歩いていく。
途中、倒れていた小さな木の枝を拾い、道の端へ寄せた。
その下には、つぶれかけた花があった。
「あら……」
しゃがみ込み、折れた茎を確かめる。
「もう少しで踏まれてしまうところだったわね」
指先から淡い光がこぼれ、折れた茎が元の形へ戻った。
花は何事もなかったように顔を上げる。
「よかった」
エリアナは立ち上がり、再び歩き始めた。
リュシーはその様子を見ながら、何か言いたそうに口を開いた。
けれど、結局何も言わなかった。
エリアナがこうして道端の花を助けるのは、昔からのことだった。
リュシーにとっても、今さら驚くような光景ではない。
◇
森を抜けると、なだらかな丘の向こうに小さな村が見えた。
村の名は、ベルナ。
石造りの家と木造の家が混在する、人口三百人ほどの静かな村だった。
中央には小さな広場があり、毎週決まった曜日には近隣の農家が野菜や果物を売りに来る。
エリアナが村へ入ると、パン屋の店先にいた女性が声をかけてきた。
「あら、エリアナちゃん!」
「こんにちは、マルタさん」
「今日もお薬を届けに来てくれたの?」
「はい。ご注文いただいていた分ができましたので」
「いつもありがとうね。そうだ、帰りにパンを持っていきなさいな。今朝焼いたばかりなの」
「でも、この前もいただいたばかりですし……」
「いいのよ。うちの旦那が腰を痛めたとき、ずいぶん助けてもらったんだから」
マルタはそう言って笑った。
エリアナもつられて微笑む。
「ありがとうございます。それなら、帰りに寄らせていただきますね」
「ええ。取っておくわ」
村の人たちは、エリアナのことをよく知っていた。
祖母の代から薬師として付き合いがあり、体調を崩したときにはいつも頼りにしている。
もっとも、村の人々が知っているのは、あくまで薬作りが上手な少女という一面だけだった。
エリアナが普段、森でどのような魔法を使っているのかまでは知らない。
祖母が生きていた頃から、村では必要以上に魔法を使わないようにしていたからだ。
「エリアナ姉ちゃん!」
元気な声がして、少年が駆け寄ってきた。
栗色の髪に、そばかすのある顔。
村長の孫、トムだった。
「こんにちは、トム」
「じいちゃんの薬、持ってきてくれた?」
「ええ。ちゃんとあるわよ」
「やった! じいちゃん、昨日また畑に行こうとして母ちゃんに怒られてたんだ」
「あら……」
エリアナは困ったように笑った。
「まだ無理をしない方がいいんだけれど」
「俺もそう言ったんだけどさ。じいちゃん、言うこと聞かなくて」
「それなら、私からもお話ししておくわね」
「お願い!」
トムは嬉しそうに笑い、エリアナの隣を歩き始めた。
村長の家は広場から少し離れた場所にある。
庭には野菜が植えられ、古い木の柵には春の蔓草が絡まっていた。
家の中へ入ると、村長のバルドが椅子に腰かけていた。
「おお、エリアナ。よく来てくれたな」
「こんにちは、バルドさん。お膝の具合はいかがですか?」
「ずいぶんよくなったよ。もう畑に出てもいいくらいだ」
「おじいちゃん!」
トムがすかさず声を上げる。
エリアナは思わず笑ってしまった。
「もう少しだけ、我慢してくださいね」
「むう……」
バルドは不満そうに口を尖らせた。
その様子がトムによく似ていて、エリアナはまた笑った。
薬を渡し、飲み方と塗り方を説明する。
バルドは真面目に聞いていたが、最後に小さくため息をついた。
「まったく、年を取ると不便なものだな」
「でも、元気になればまた畑に出られますよ」
「そうだな。楽しみにしておこう」
エリアナは頷き、空になった籠を持ち直した。
帰ろうとしたところで、バルドがふと思い出したように言った。
「そういえば、エリアナ」
「はい?」
「最近、森の方で変わったことはなかったか?」
エリアナは首を傾げた。
「変わったこと、ですか?」
「ああ。数日前、森の奥で妙な光が見えたという者がいてな」
エリアナは少し考えた。
数日前。
森の東側で、魔力の流れがおかしくなっていた日だろうか。
「ああ……」
思わず声を漏らす。
バルドが顔を上げた。
「何か知っておるのか?」
「いえ、森の東側で少し魔力が乱れていたので、整えておいたんです」
「……魔力を?」
「はい。今はもう大丈夫だと思います」
エリアナは安心させるように微笑んだ。
バルドはしばらく彼女を見つめた。
祖母のエレオノーラも、似たようなことを言っていたのを思い出したのだ。
昔、村の井戸が突然枯れたときも、彼女は『少し水の流れを整えてきます』と言って森へ入っていった。
翌朝には、井戸の水が戻っていた。
理由を尋ねても、エレオノーラはただ笑うだけだった。
「……そうか」
バルドはゆっくりと頷いた。
「それなら、安心だな」
「はい」
エリアナは嬉しそうに答えた。
バルドはそれ以上何も聞かなかった。
彼女の祖母が守ってきた暮らしを、余計な詮索で乱したくなかったからだ。
◇
その日の夕方。
アルヴェリス公爵邸の執務室に、青い羽の鳥が舞い込んできた。
ルシアンは書類から顔を上げた。
「……戻ったのか」
鳥は机の端に降り立ち、小さく鳴いた。
足元には、見覚えのない白い封筒が結ばれている。
ルシアンは手を伸ばし、丁寧に取り外した。
差出人の名前を見た瞬間、自然と口元が緩んだ。
「エリアナ……」
封を開け、便箋を広げる。
そこには、整った柔らかな文字が並んでいた。
ルシアンはゆっくりと読み進めた。
王都への招待を喜んでくれたこと。
村への薬の配達があるため、数日待ってほしいこと。
そして、リュシーも一緒に連れていきたいというお願い。
最後まで読み終えると、彼は小さく笑った。
「……やはり、あの精霊も一緒か」
あの小さな風の精霊は、どうやら自分のことをあまり気に入っていないらしい。
森を離れるときも、エリアナの肩からじっとこちらを見ていた。
しかし、エリアナにとって大切な友人であることはよくわかっている。
もちろん、断る理由などなかった。
ルシアンは便箋をもう一度眺めた。
簡潔で、飾り気のない文章。
それでも、彼女の声が聞こえてくるようだった。
王都の図書館を楽しみにしている様子も、リュシーを気遣う優しさも、文字の端々から伝わってくる。
しばらく手紙を眺めていると、扉が叩かれた。
「閣下、失礼いたします」
ノアが入ってきた。
「王都の警備隊から、昨日の襲撃に関する追加報告が届いております」
「ああ。ありがとう」
ルシアンは手紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しへしまった。
ノアはその様子を見逃さなかった。
「……何か、よい知らせでも?」
「なぜ?」
「先ほどから、ずいぶん機嫌がよさそうなので」
「そう見えるかい?」
「見えますね」
ノアは迷いなく答えた。
ルシアンは一瞬考え、それから小さく笑った。
「……森から返事が届いたんだ」
「ああ、エリアナ様から」
「そうだ」
「王都へいらっしゃるんですか?」
「ああ。数日後になると思う」
ノアは頷いた。
「それはよかったですね」
「うん」
ルシアンは素直に答えた。
その返事があまりにも自然だったので、ノアはかえって驚いた。
いつもの主君なら、感情をはっきり表に出すことは少ない。
それなのに今日は、まるで楽しみにしていた約束が決まった少年のようだった。
「……閣下」
「何だい?」
「エリアナ様がいらっしゃるの、そんなに楽しみなんですか?」
ルシアンは手元の書類に視線を落とした。
そして、少し考えてから答えた。
「……そうだね。楽しみだよ」
ノアは目を丸くした。
だが、ルシアンはそれ以上何も言わず、書類を読み始めてしまった。
ノアはしばらくその横顔を見つめていたが、やがて何かに気づいたように小さく笑った。
どうやら、森での出来事は、主君が思っている以上に大きな変化をもたらしたらしい。
◇
夜。
エリアナは寝室の床に、小さな旅行鞄を広げていた。
中には着替えと日用品、それから読みかけの本を数冊。
王都へ行くのは初めてなので、何を持っていけばいいのかよくわからない。
「……これで足りるかしら」
エリアナは鞄の中を確かめた。
すると、リュシーが横から顔を出した。
「お菓子は?」
「向こうで買えると思うわよ」
「でも、エリアナのお菓子がいい!」
「ふふ。それなら、出発する前日に焼きましょうか」
「やった!」
リュシーは嬉しそうに飛び跳ねた。
エリアナは鞄を閉じ、ベッドの端に腰を下ろした。
王都。
大きな図書館。
美しい街並み。
そして、ルシアン。
考えるだけで、少し胸が弾む。
祖母が生きていた頃、何度か王都の話を聞いたことがあった。
けれど、祖母はあまり詳しく話そうとしなかった。
『王都は賑やかで、綺麗なものもたくさんあるわ。でも、静かな暮らしが好きなら、森の方がずっといい』
そんなふうに笑っていた。
エリアナも、その言葉に不満を感じたことはなかった。
森の暮らしは心地よく、毎日が楽しかったからだ。
それでも今は、少しだけ外の世界を見てみたいと思っている。
新しい本を読み、知らない景色を眺め、今まで会ったことのない人たちと話してみたい。
そして、ルシアンともう一度お茶を飲めたら嬉しい。
「……楽しみね」
エリアナは小さくつぶやいた。
リュシーは枕元に座り、彼女をじっと見つめた。
「ねえ、エリアナ」
「なあに?」
「王都に行ったら、森に帰ってくるよね?」
少し不安そうな声だった。
エリアナは驚いてリュシーを見た。
「もちろんよ」
「ほんと?」
「ええ。ここは私のお家だもの」
そう言って、そっと小さな頭をなでる。
「王都も楽しみだけれど、私はこの森が大好きよ」
リュシーは安心したように笑った。
「リュシーも!」
「ふふ。知っているわ」
窓の外では、月明かりに照らされた花々が静かに揺れていた。
エリアナはカーテンを閉じ、灯りを消した。
数日後には、初めての王都へ向かう。
その旅が、自分の暮らしを少しずつ変えていくことになるとは、まだ想像もしていなかった。
けれど今は、ただ楽しみだった。
知らない街へ行くことも。
新しい本と出会うことも。
そして、あの穏やかな青い瞳を持つ青年に、もう一度会えることも。




