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森の奥で静かに暮らしたいだけなのですが、どうやら私の魔法は普通ではないようです。  作者: nene
第一章 花の咲く家

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5. 森に届いた一通の手紙


 ルシアンが森を去ってから、五日が過ぎた。


 フィルネの森には穏やかな春の日が続き、エリアナの庭では薄紫色の花が咲き始めていた。


 温室の窓を開けると、湿った土と若葉の香りが漂ってくる。


「今年は少し早いわね」


 エリアナは小さな鉢植えを手に取り、芽吹いたばかりの葉を確かめた。


 祖母が育てていた星灯花。


 夜になると花弁が淡く光る、不思議な植物だ。


 寒さに弱いため、春になってもなかなか芽を出さない年があるのだが、今年はずいぶん元気がいい。


「この調子なら、来月には咲くかしら」


「エリアナ!」


 開いた窓からリュシーが飛び込んできた。


 小さな身体には似合わない大きさの木苺を抱え、嬉しそうに羽を動かしている。


「見て! 森の奥で見つけたの!」


「まあ、大きな木苺ね」


「甘いよ! 一つ食べちゃった!」


「それなら、あとでお菓子に使いましょうか」


「やった!」


 リュシーは木苺を籠に落とすと、温室の天井近くをくるくると飛び回った。


 エリアナはその様子を眺めながら、小さく笑った。


 いつもと変わらない朝だった。


 薬草の世話をして、昼には村へ届ける薬を仕上げる。夕方になったら本を読み、夜は温かいお茶を淹れる。


 そんな毎日が好きだった。


 けれど最近、一つだけ新しい習慣が増えていた。


 家の前を通る道へ、時折目を向けることだ。


 普段、その道を通るのは村の人か、森に住む動物くらいだった。


 それなのに、遠くで馬の足音に似た音がすると、つい耳を澄ませてしまう。


「……まだ来ないのかな」


 リュシーがつぶやいた。


「何が?」


「あの人」


 エリアナは水差しを置いた。


「ルシアン様のこと?」


「そう。エリアナ、最近よく道の方を見てるから」


「そんなに見ているかしら」


「見てるよ」


 リュシーは当然のように頷いた。


 エリアナは少し考えてから、温室の外へ視線を向けた。


「王都は遠いもの。お仕事もお忙しいでしょうし、そんなにすぐには来られないと思うわ」


「ふうん」


「それに、また来てくださるって約束してくれたから」


 エリアナは笑った。


「楽しみに待っていましょう」


 リュシーは彼女の顔をじっと見つめたあと、何かを思いついたようににやりと笑った。


「エリアナって、あの人のこと好きなの?」


「え?」


「だって、会うの楽しみにしてるんでしょ?」


「ええ。とても親切な方だったもの」


「そういう好きじゃなくて!」


「……そういう?」


 エリアナが首を傾げると、リュシーは両手を広げた。


「もう! いい!」


 どうして怒ってしまったのだろう。


 エリアナにはよくわからなかった。


        ◇


 同じ頃、王都リュミエール。


 アルヴェリス公爵邸の執務室では、ルシアンが机に向かっていた。


 朝から書類に目を通し、領地から届いた報告書を確認している。


 窓の外には広大な庭園が広がり、手入れの行き届いた薔薇が春の日差しを浴びていた。


 五日前までなら、これだけの仕事を終える頃には胸の奥が重くなっていたはずだ。


 だが、今日は違う。


 朝から一度も休憩を取っていないにもかかわらず、疲れはほとんど感じなかった。


「閣下、お茶をお持ちしました」


 扉を叩く音とともに、年配の執事が入ってきた。


「ありがとう、セドリック」


 ルシアンは書類から顔を上げた。


 セドリックは銀の盆を机に置くと、少しだけ表情を和らげた。


「本日はお顔の色がよろしゅうございますね」


「最近はずっと調子がいいよ」


「そのようでございます。朝食も残さず召し上がっておられましたし」


「……そんなところまで見ているのか」


「当然でございます」


 セドリックは涼しい顔で答えた。


 幼い頃からルシアンの世話をしてきた執事にとって、主君の体調は何より気にかかることだった。


 呪いが消えたことは、すでに公爵家のごく一部の者には伝えてある。


 ただし、解呪の経緯については伏せていた。


 セドリックも、それ以上は尋ねようとしない。


「ところで、閣下」


「何だい?」


「今朝、お申し付けいただいた品が揃いました」


「もう?」


「はい。王都でも評判の菓子店から、日持ちのする焼き菓子を数種類。それから、ご指定の茶葉も」


 ルシアンは手を止めた。


「ありがとう。助かったよ」


「贈答用の箱にお詰めしてよろしいでしょうか」


「ああ。あまり大げさにならないように頼む」


「かしこまりました」


 セドリックは一礼したが、すぐには退室しなかった。


「……ほかに何か?」


「差し出がましいことを申し上げますが」


「うん?」


「閣下がご自身で贈り物をお選びになるのは、珍しいことでございますね」


 ルシアンは一瞬、返事に詰まった。


 確かに、これまで贈答品は執事や秘書に任せることがほとんどだった。


 相手の好みに合わせて品を選ぶのも、仕事の一つとして考えていた。


 けれど今回は違う。


 何を贈れば喜んでもらえるだろう。


 そんなことを考えながら店の品書きを眺めていた時間は、思いのほか楽しかった。


「……世話になった人がいるんだ」


「存じております。森で閣下をお助けくださった方ですね」


「ああ」


 ルシアンは頷いた。


「甘いものが好きなようでね。友人の精霊も、菓子を気に入っていた」


「……精霊、でございますか」


 セドリックはわずかに眉を動かしたが、すぐにいつもの表情に戻った。


「承知いたしました。精霊様のお口にも合うとよろしいですね」


 その落ち着いた返事に、ルシアンは思わず笑った。


「君は本当に驚かないな」


「長くお仕えしておりますので」


「それと、手紙も一緒に届けたい。便箋を用意してくれるかい?」


「ただいま」


 セドリックが退出すると、ルシアンは窓の外へ視線を向けた。


 森の小さな家。


 花に囲まれた庭。


 そして、自分を見送るときに浮かべたエリアナの笑顔。


 王都に戻ってから、ふとした拍子に思い出すことがあった。


 仕事をしているときも、食事の席でも。


 庭園に咲く花を見ただけで、彼女のことが頭に浮かぶ。


 自分でも少し不思議だった。


 けれど、その気持ちを不快だとは思わなかった。


        ◇


 昼過ぎ。


 王立魔導院の院長、オルフェン・ヴァイスは、古い資料室に籠もっていた。


 机の上には、年代の異なる記録が何冊も積まれている。


 その中心に置かれているのは、一人の女性に関する調査記録だった。


 エレオノーラ・フィオーレ。


 三十年以上前、王立魔導院からの招聘を断り、フィルネの森へ移り住んだ魔導師。


 彼女について記された資料は、驚くほど少なかった。


 名前と、わずかな経歴。


 それに、当時の院長が残した短い報告書だけだ。


「……やはり、おかしい」


 オルフェンは小さくつぶやいた。


 エレオノーラほどの魔導師なら、もっと多くの記録が残されているはずだった。


 しかし、彼女が王都を離れたあとの記録はほとんどない。


 まるで、誰かが意図的に消したかのように。


 オルフェンは一枚の書類を取り上げた。


 そこには、三十五年前の日付とともに、次のような記述があった。


『エレオノーラ・フィオーレの研究について、今後一切の追跡調査を禁ずる』


 署名は、当時の国王のものだった。


「……陛下が直接?」


 オルフェンは眉を寄せた。


 王立魔導院の研究に、国王がこれほど強く介入することは珍しい。


 しかも、その命令には理由が記されていなかった。


 何か重大な事情があったのだろう。


 そのとき、資料室の扉が叩かれた。


「院長、失礼いたします」


 若い魔導師が顔をのぞかせた。


「どうした?」


「アルヴェリス公爵閣下から、お会いしたいとのご連絡がございました」


 オルフェンは顔を上げた。


「……アルヴェリス公爵が?」


「はい。本日の午後、お時間をいただけないかと」


「珍しいな」


 ルシアン・アルヴェリス。


 王国でも有数の名門貴族であり、国王の信頼も厚い青年。


 幼い頃から呪いを抱えているため、オルフェンも何度か診察をしたことがあった。


 最後に会ったのは、数か月前だっただろうか。


「……何かあったのかもしれんな」


 オルフェンは書類を閉じた。


「午後なら構わん。こちらから伺おう」


「承知いたしました」


 若い魔導師が退出すると、オルフェンは再び机の上の記録へ目を向けた。


 フィオーレという名前が、妙に気にかかっていた。


        ◇


 午後三時。


 アルヴェリス公爵邸の応接室には、穏やかな紅茶の香りが漂っていた。


「……それで、話とは何かな?」


 オルフェンは向かいに座るルシアンを見つめた。


 そして、すぐに違和感を覚えた。


「……公爵閣下」


「はい」


「失礼だが、少し近くでお顔を拝見しても?」


 ルシアンは小さく笑った。


「どうぞ」


 オルフェンは席を立ち、彼のそばへ歩み寄った。


 魔力を集中させ、ルシアンの身体を慎重に調べる。


 次の瞬間、その表情が凍りついた。


「……これは」


 もう一度確かめる。


 しかし、結果は変わらない。


 あるはずのものが、ない。


「……閣下」


「はい」


「呪いが……消えておる」


 ルシアンは静かに頷いた。


「その件で、お話があるのです」


 オルフェンは椅子へ戻ることも忘れ、彼を見つめた。


「いったい、どうやって……?」


「森で、ある方に助けられました」


「森?」


「フィルネの森です」


 オルフェンの目が見開かれた。


「……フィルネ?」


「ご存じですか?」


「いや……」


 老人は慎重に言葉を選んだ。


「その森について、少し調べていたところでな」


 ルシアンは表情を変えなかった。


 しかし、内心では警戒を強めていた。


 フィルネの森。


 そして、エリアナの魔法。


 偶然にしては、話ができすぎている。


「院長」


「何かな」


「私を治療してくれた方について、いくつかお尋ねしたいことがあります」


「……ほう」


「彼女は、ごく自然に古い呪いを解いてしまいました。しかも、特別な術式を使った様子もありません」


 オルフェンは息をのんだ。


「……無詠唱で?」


「そうです」


「魔法陣は?」


「私が見た限りでは、ありませんでした」


 オルフェンはしばらく黙り込んだ。


 そして、低い声で尋ねた。


「……その者の名は?」


 ルシアンは一瞬ためらった。


 彼女を守ると決めたばかりだった。


 ここで名前を明かすことが、本当に正しいのだろうか。


 だが、オルフェンは長年公爵家に協力してきた人物だ。


 呪いの研究にも深く関わっている。


 何より、ルシアンには確かめたいことがあった。


「エリアナ・フィオーレ」


 名前を告げた瞬間、オルフェンの表情が変わった。


「……フィオーレ?」


「はい」


「……エリアナ、と申したか」


「ご存じなのですか?」


 オルフェンはすぐには答えなかった。


 やがて、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。


「……いや。その名を聞くのは初めてだ」


「では、何か心当たりが?」


「祖母君の名は、わかるか?」


 ルシアンは眉を寄せた。


「エレオノーラ、だったと思います」


 オルフェンは目を閉じた。


「……やはり」


 その声は、ひどく静かだった。


 ルシアンは身を乗り出した。


「院長。何をご存じなのですか?」


 オルフェンはしばらく考え込んでいた。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「エレオノーラ・フィオーレは、かつて王立魔導院に招聘された魔導師だ」


「……魔導師?」


「しかも、ただの魔導師ではない」


 老人の声が低くなる。


「当時、王国で最も優れた魔法の使い手の一人だった」


 ルシアンは黙って聞いていた。


「だが、ある出来事を境に、王都から姿を消した。王宮も魔導院も、彼女を追うことを禁じられたのだ」


「……なぜ?」


「それは、今もわからん」


 オルフェンは首を振った。


「ただ一つ、確かなことがある」


「何でしょう」


 老人はルシアンをまっすぐに見た。


「彼女が研究していたのは、現代では失われた原初魔法だ」


 応接室に沈黙が落ちた。


 ルシアンは、その言葉の意味をゆっくりと考えた。


 原初魔法。


 古代の記録にのみ残されている、世界の魔力そのものに働きかける術。


 もしエリアナが、その魔法を受け継いでいるのだとしたら。


「……院長」


「何かな」


「この話は、まだ誰にも伝えないでいただきたい」


 オルフェンは彼を見つめた。


「……理由を聞いても?」


「彼女は、森で静かに暮らしています」


 ルシアンは穏やかに答えた。


「自分の魔法が特別だということも、ほとんど理解していません」


「……そうか」


「私は、彼女の暮らしを乱したくないのです」


 オルフェンはしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……わかった」


 その声には、どこか懐かしむような響きがあった。


「かつてエレオノーラも、同じことを望んでおった」


 ルシアンは顔を上げた。


「同じこと?」


「ああ。静かに、誰にも邪魔されずに暮らしたいと」


 オルフェンは小さく息を吐いた。


「どうやら、孫娘もよく似ているらしいな」


        ◇


 その日の夕方。


 エリアナは家の前で、小さな鳥を見つけた。


 薄茶色の羽を持つ、手のひらほどの鳥だった。


 しかし、普通の鳥とは少し違う。


 羽の先が淡い青色に光り、首元には小さな銀色の飾りがついている。


「あら?」


 エリアナが近づくと、鳥は逃げることなく彼女の肩に止まった。


「こんにちは。どこから来たの?」


 鳥は小さく鳴き、足に結ばれた細い紐を見せた。


 そこには、小さく折りたたまれた手紙がついている。


「……お手紙?」


 エリアナは慎重に紐をほどいた。


 封筒には、美しい銀色の紋章が刻まれている。


 見覚えのないものだった。


 けれど、宛名を見た瞬間、思わず声が出た。


「……ルシアン様?」


 丁寧な文字で、彼の名前が記されていた。


 エリアナは少し緊張しながら封を開いた。


 中には、上質な便箋が一枚入っていた。


『エリアナへ。


 先日は大変お世話になりました。


 おかげさまで、王都へ戻ってからも体調は良く、穏やかな日々を過ごしています。


 いただいた薬草茶も、とても美味しくいただきました。


 君が用意してくれた焼き菓子は、帰りの馬車の中でノアと分け合いました。


 彼も大変気に入ったようです。


 さて、以前お話しした王都への招待についてですが、もし君の都合がよければ、近いうちに迎えを送りたいと考えています。


 王立図書館の閲覧許可についても、手配を進めています。


 もちろん、急ぐ必要はありません。


 君の好きなときに、好きなだけ滞在してくれれば嬉しく思います。


 また会える日を、楽しみにしています。


 ルシアン・アルヴェリス』


 読み終えたエリアナは、しばらく便箋を見つめていた。


 それから、自然と頬が緩んだ。


「……嬉しい」


 小さくつぶやく。


 王都の図書館。


 新しい本。


 初めて訪れる美しい街。


 楽しみなことは、たくさんある。


 けれど、それ以上に。


 ルシアンが自分のことを覚えていてくれたことが、嬉しかった。


「エリアナ!」


 リュシーが家の中から飛び出してきた。


「誰からのお手紙?」


「ルシアン様からよ」


「えっ!」


 リュシーは目を丸くした。


「もう来たの?」


「ふふ。お手紙だけれどね」


 エリアナは便箋を胸の前でそっと持った。


「王都に招待してくださるんですって」


「王都?」


「ええ。図書館にも連れていってくださるそうよ」


 リュシーは少し考え、それから両手を腰に当てた。


「……リュシーも行く!」


「もちろん。一緒に行きましょう」


「ほんと?」


「ええ。リュシーがいないと寂しいもの」


 その言葉に、リュシーは嬉しそうに笑った。


 エリアナも微笑み、もう一度手紙に目を落とした。


 最後の一文。


『また会える日を、楽しみにしています』


 そこを読むと、なぜか胸の奥がほんのり温かくなる。


「……私も」


 誰に聞かせるでもなく、エリアナはつぶやいた。


「私も、楽しみです」


 森の木々を、夕風が優しく揺らしていた。


 エリアナは手紙を大切に折りたたみ、家の中へ向かった。


 返事を書くために。


 そして、まだ見ぬ王都への旅を、少しだけ楽しみにしながら。

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