4. 公爵様からの招待
ノア・ヴェルディは、目の前の光景がどうにも信じられなかった。
アルヴェリス公爵家の若き当主、ルシアン・アルヴェリス。
王国でも屈指の名門貴族を率い、国王からの信頼も厚い人物だ。物腰は穏やかで礼儀正しいが、必要以上に他人と親しくなることはない。
ノアは五年前から彼の護衛を務めているものの、私生活については知らないことの方が多かった。
そんな主君が今、見知らぬ少女の前で笑っている。
しかも、ひどく楽しそうに。
「……閣下」
「何だ、ノア」
「本当に、お加減はよろしいのですか?」
「さっきから何度も聞いているだろう。問題ないよ」
「ですが……」
ノアはなおも疑わしそうにルシアンを見つめた。
昨日の襲撃で負った傷を、この目で見ている。
深く斬られた脇腹。
衣服を染めた大量の血。
もともと呪いを抱えていた身体では、命に関わるほどの重傷だったはずだ。
それなのに、傷どころか顔色までよくなっている。
「……失礼します」
ノアはルシアンのそばへ寄り、声を落とした。
「昨日のお怪我は、どうなったのですか?」
「治してもらった」
「治して……?」
「ああ」
「どなたに?」
ルシアンは、庭の片隅でリュシーと話しているエリアナに視線を向けた。
ノアもつられてそちらを見る。
銀金色の髪をした少女は、小さな籠を手に何かを探しているようだった。
やがて花壇から一本の草を摘み、嬉しそうに微笑む。
「……あの方が?」
「そうだ」
「治癒魔法を使える薬師なのでしょうか」
「薬師ではあるらしい」
「らしい?」
妙な言い方だった。
ノアが眉を寄せると、ルシアンは小さく息を吐いた。
「詳しいことは、あとで話そう」
「しかし……」
「ノア」
穏やかな声だったが、それ以上の質問を許さない響きがあった。
ノアは口を閉じた。
「……承知しました」
ルシアンは頷き、再びエリアナへ目を向けた。
その横顔を見て、ノアはますます不思議に思った。
普段の主君なら、状況を確認したあと、すぐに帰還の準備を命じるはずだ。
だが、今日は違う。
まるで、ここを離れることを惜しんでいるかのようだった。
◇
「エリアナ、これも持っていく?」
リュシーが小さな瓶を両手で抱えながら尋ねた。
「そうね。念のため、そちらもお願い」
「はーい!」
エリアナは籠の中身を確かめ、満足そうに頷いた。
入っているのは、傷薬と疲労回復の薬、それから数種類の薬草茶だった。
ルシアンはもう元気そうだったけれど、昨日まで大きな怪我をしていたのだから、少し心配だった。
王都へ戻るまでに、また体調を崩すかもしれない。
「……これで大丈夫かしら」
最後に小さな包みを入れ、エリアナは籠を持ち上げた。
そのとき、背後から声がした。
「エリアナ」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
「あ、ルシアン様。ちょうどよかったです」
「どうしたんだい?」
「これをお渡ししようと思って」
エリアナは籠を差し出した。
「お薬と薬草茶です。もしお疲れが出たら、こちらのお薬を飲んでください。青い包みの方は眠れないときに、白い包みの方は身体がだるいときに使えます」
ルシアンは籠を見つめた。
「……私のために?」
「はい。帰り道は長いのでしょう?」
「ああ。王都までは馬車で五日ほどかかる」
「それなら、なおさらです。途中でお身体がつらくなったら大変ですから」
彼女は籠の中から小瓶を一つ取り出した。
「こちらは傷薬です。少し深い傷でも、塗っておけばすぐによくなりますよ」
「……そうか」
ルシアンは瓶を受け取った。
中には、淡い琥珀色の液体が入っている。
栓を開ける前から、清らかな魔力が伝わってきた。
ただの傷薬ではない。
魔力を感知できる者なら、一目でわかるほどの高品質な薬だった。
「これも、君が作ったのか?」
「はい。昨日の夜、少しだけ作り足しておきました」
「……昨日の夜?」
「ええ。材料が残っていたので」
ルシアンは瓶を見下ろした。
昨日の夜。
彼女は夕食を作り、部屋を用意し、それから薬まで作っていたというのか。
「エリアナ」
「はい?」
「君は、ちゃんと眠ったのかい?」
思いがけない質問だったのか、エリアナは目を瞬かせた。
「もちろんです」
「本当に?」
「はい。夜更かしは身体によくないですから」
そう言って微笑む。
その答えに、ルシアンは安心すると同時に、少しおかしくなった。
「そうだね。気をつけよう」
「ふふ。ぜひ、そうしてください」
彼女は少しだけ得意そうに頷いた。
ルシアンはその様子を眺め、ゆっくりと籠を受け取った。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
「お役に立てたら嬉しいです」
エリアナは心から嬉しそうに笑った。
その表情を見ていると、何かを返さなければという義務感より、彼女の喜ぶ顔をもう一度見たいという気持ちの方が強くなっていく。
ルシアンは籠を持ち直し、ふと尋ねた。
「エリアナ。君は、王都の図書館に行ってみたいと言っていたね」
「はい!」
返事は驚くほど早かった。
ルシアンは思わず微笑んだ。
「本が好きなんだね」
「大好きです。祖母がたくさん残してくれたんですけれど、ほとんど読んでしまって」
「ほとんど?」
「ええ。新しい本を探したいんです」
「なるほど」
彼は少し考えた。
王都には王立図書館がある。
一般に公開されている書庫だけでも膨大な数の書物が保管されているが、エリアナが興味を持つのは、おそらく魔法や薬学に関するものだろう。
そうした専門書の多くは、魔導院の管理する特別書庫に収められている。
通常、閲覧には許可が必要だった。
だが、ルシアンなら手配できる。
「王都に来ることがあれば、図書館を案内しよう」
「本当ですか?」
「ああ。魔法や薬学の専門書も読めるようにしておくよ」
エリアナの瞳が、いっそう輝いた。
「専門書も……!」
「興味がある?」
「もちろんです。祖母が持っていた本には載っていないことも、きっとたくさんありますよね」
「そうだろうね」
「……楽しみです」
エリアナは胸の前で両手を合わせた。
その無邪気な喜びように、ルシアンは目を細めた。
王都には美しい宝石も、高価な衣装も、珍しい菓子もある。
けれど、彼女にとっては新しい本を読むことが何よりの楽しみらしい。
「それなら、正式に招待させてもらってもいいかな」
「招待、ですか?」
「ああ。公爵家の客人として、王都へ来てほしい」
エリアナは少し驚いたように口を開いた。
「……私が、公爵家に?」
「もちろん、無理にとは言わないよ。森での暮らしが大切なのはわかっているし、気が向いたときで構わない」
「でも……」
エリアナは迷うように視線を落とした。
「私、貴族の方のお屋敷に伺ったことがなくて……。失礼なことをしてしまわないでしょうか」
「心配しなくていい」
ルシアンは穏やかに答えた。
「君は私の大切な恩人だ。誰にも失礼な扱いはさせないよ」
エリアナは顔を上げた。
まっすぐに向けられた青い瞳に、思わず見入ってしまう。
静かで、落ち着いた声。
けれど、言葉の一つひとつに迷いがなかった。
「……ありがとうございます」
エリアナは少し照れながら微笑んだ。
「それなら、ぜひ伺ってみたいです」
「よかった」
ルシアンの表情が和らいだ。
そのとき、少し離れた場所からノアの声がした。
「閣下! そろそろ出発のご準備を!」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「……どうやら、時間のようだ」
エリアナは庭の向こうに停められた馬車を見た。
馬たちはすっかり落ち着き、騎士たちも出発の準備を整えている。
もう、お別れの時間なのだろう。
「ルシアン様」
「何だい?」
「お帰りになったら、しばらくは無理をなさらないでくださいね」
「わかった」
「それから、お薬を飲むときは、ちゃんとお水も飲んでください」
「ああ」
「食事も、できれば温かいものを……」
そこまで言って、エリアナははっとした。
「……すみません。私、少し口うるさいですね」
恥ずかしそうに目を伏せる。
ルシアンは小さく笑った。
「いや。嬉しいよ」
「……そうですか?」
「ああ。こんなふうに心配してもらうのは、久しぶりだから」
エリアナは不思議そうに彼を見上げた。
公爵様なのだから、きっと大勢の人が気にかけているはずなのに。
それでも、彼はどこか寂しそうに見えた。
「……あの」
「うん?」
「また、お疲れになったら、ここにいらしてくださいね」
ルシアンは瞬きをした。
「……ここに?」
「はい。特別なものはありませんけれど、静かですし、ゆっくり休めると思います」
エリアナは少し考え、それから付け加えた。
「お好きでしたら、またスープも作ります」
ルシアンは、しばらく何も言わなかった。
彼女の言葉は、あまりにも自然だった。
何かを求めるわけでもなく、身分を気にすることもなく。
ただ、疲れたら休みに来てほしいと言っている。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
「……ありがとう」
ルシアンはゆっくりと微笑んだ。
「必ず、また来るよ」
その言葉を聞いて、エリアナも嬉しそうに頷いた。
◇
馬車が森を抜ける頃には、陽が高く昇っていた。
ルシアンは窓際の席に腰を下ろし、膝の上に置いた籠を眺めていた。
小さな薬瓶。
丁寧に包まれた薬草茶。
そして、出発の間際にエリアナが入れてくれた焼き菓子。
どれも、彼女が自分のために用意してくれたものだった。
「……閣下」
向かいに座るノアが、遠慮がちに声をかけた。
「何だい?」
「そろそろ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「何の話だろう」
「……昨日のことです」
ノアは真剣な表情になった。
「閣下が森で倒れられたことも、あの方に助けられたことも、まだ詳しく伺っておりません」
「そうだったね」
「それに……」
ノアは言葉を切り、ルシアンの顔を見つめた。
「お身体の具合が、あまりにも違います」
ルシアンは静かに視線を上げた。
「……気づいたか」
「当然です。五年間、お側でお仕えしているんですよ」
ノアの声には、隠しきれない戸惑いがあった。
「昨日まで、階段を上がるだけでもおつらそうな日がありました。それが今日は、まるで別人のようです」
「そうだね」
「……何があったのですか?」
ルシアンはしばらく窓の外を眺めていた。
馬車は森の小道を進み、木々の間から柔らかな光が差し込んでいる。
やがて彼は、静かに口を開いた。
「呪いが消えたんだ」
ノアは息をのんだ。
「……は?」
「私の身体にかけられていた呪いが、完全に消えた」
「……そんな」
ノアは言葉を失った。
公爵家に代々受け継がれてきた呪い。
王国最高位の魔導師でさえ解くことができず、何世代にもわたり当主たちを苦しめてきたものだ。
それが、消えた?
「……まさか、あの少女が?」
「ああ」
ルシアンは頷いた。
「彼女が治してくれた」
「ですが……!」
ノアは思わず身を乗り出した。
「失礼ながら、あの方はまだお若い。それに、魔導院の方でもないのでしょう?」
「そうだね」
「それなのに、どうして……」
「私にも、詳しいことはわからない」
ルシアンは正直に答えた。
「ただ、彼女は自分のしたことがどれほど特別なのか、理解していないようだった」
「……理解していない?」
「ああ。呪いを解くことも、傷を治すことも、彼女にとってはごく普通のことらしい」
ノアは頭を抱えた。
「……そんな馬鹿な」
「私も最初はそう思ったよ」
ルシアンは苦笑した。
「けれど、実際に見ればわかる。彼女は嘘をついていない」
ノアはしばらく黙り込んだ。
やがて、慎重に口を開く。
「……閣下。そのことは、誰にも話さない方がよろしいのでは」
「ああ。私もそう考えている」
「もし知られれば、王立魔導院はもちろん、王宮も黙っていないでしょう」
「そうだろうね」
ルシアンは膝の上の籠に手を置いた。
エリアナは、自分の魔法の価値を知らない。
だからこそ、危うい。
彼女を利用しようと考える者が現れても、不思議ではなかった。
「ノア」
「はい」
「彼女のことは、必要以上に他言しないように」
「承知しました」
「昨日の治療についても、私が回復したという事実だけを伝えてほしい。詳しい経緯は、まだ伏せておく」
「……わかりました」
ノアは深く頷いた。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「しかし……よかったです」
「何が?」
「閣下の呪いが解けたことですよ」
その声には、心からの安堵がにじんでいた。
「もう、あの痛みに苦しまずに済むんですね」
ルシアンは一瞬、言葉に詰まった。
ノアは若い頃から彼に仕えてきた。
何度も体調を崩す姿を見せ、心配をかけてきたこともわかっている。
「……ああ」
ルシアンは静かに頷いた。
「そうだね」
ノアはほっとしたように笑った。
「本当に、よかった……」
その様子を見て、ルシアンも表情を和らげた。
そして、ふと窓の外へ視線を向ける。
森はもう、遠くなり始めていた。
あの小さな家も、花々に囲まれた庭も、今は見えない。
けれど、エリアナの笑顔だけは、妙にはっきりと思い出せた。
◇
同じ頃。
エリアナは庭の椅子に座り、読みかけの本を開いていた。
ルシアンたちを見送ったあと、家の中を片づけ、いつものように庭へ出てきたのだ。
けれど、今日は何となく落ち着かなかった。
「……静かね」
思わずつぶやく。
昨日までと同じ庭。
同じ木々。
同じ花の香り。
何も変わっていないはずなのに、少しだけ違って感じられる。
「エリアナ?」
リュシーが肩に降り立った。
「どうしたの?」
「ううん。何でもないわ」
「さっきから、全然本を読んでないよ」
「……そうかしら」
「そうだよ。さっきから同じところを見てるもん」
エリアナは手元の本に目を落とした。
確かに、開いてから一度もページをめくっていなかった。
「……本当ね」
小さく笑い、本を閉じる。
リュシーは不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、あの人がいなくなって寂しいの?」
「え?」
思いがけない言葉だった。
エリアナは瞬きをした。
「……寂しい?」
「うん」
「そう……なのかしら」
考えてみる。
ルシアンがこの家にいたのは、ほんの一晩だけだった。
それなのに、朝食を一緒に食べたり、庭でお茶を飲んだりした時間が、なぜかとても楽しかった。
彼はいつも穏やかに話を聞いてくれて、何を話しても笑わなかった。
祖母が亡くなってから、誰かとあんなふうに長く話したのは久しぶりだったかもしれない。
「……そうね」
エリアナは小さく頷いた。
「少し、寂しいのかもしれないわ」
リュシーは目を丸くした。
「えっ!」
「どうしたの?」
「……なんでもない!」
なぜか慌てて飛び上がるリュシーを、エリアナは不思議そうに見つめた。
それから、ふと思い出したように微笑む。
「でも、また来てくださるっておっしゃっていたもの」
「……うん」
「そのときは、何を作ろうかしら」
エリアナは庭の花々へ目を向けた。
ルシアンは、昨日のスープを美味しいと言ってくれた。
焼き菓子も気に入ってくれたようだった。
それなら、今度は果物を使ったお菓子にしてみようか。
温室には、ちょうど甘い実をつけ始めた木がある。
「……そうだわ」
エリアナは立ち上がった。
「今度は、林檎のタルトにしましょう」
「タルト!」
リュシーの声が弾んだ。
「リュシーも食べたい!」
「ふふ。もちろんよ」
エリアナは笑いながら温室へ向かった。
その足取りは、先ほどより少し軽くなっていた。
自分でも気づかないうちに、次に会える日を楽しみにしている。
そんな小さな変化を、彼女はまだ深く考えていなかった。
◇
その日の夕方。
王立魔導院の院長室には、重苦しい空気が漂っていた。
オルフェン・ヴァイスは、机の上に広げられた古い地図を見つめていた。
フィルネの森。
昨日、数百年続いていた呪詛反応が突然消えた場所だ。
何度調べても、結果は変わらない。
呪詛は完全に消失していた。
しかも、周囲の魔力は以前よりも安定している。
「……何者かが、浄化したとしか思えん」
オルフェンは低くつぶやいた。
だが、そんなことが可能なのだろうか。
古代の呪詛を完全に消し去る魔法。
現代では失われた、原初の術式。
その存在は、古い文献にわずかに記されているだけだった。
オルフェンは棚から一冊の書物を取り出した。
革の表紙は色褪せ、背表紙には古代文字が刻まれている。
ゆっくりとページをめくる。
そこには、かつて世界の魔力を直接操ったとされる者たちについて、短い記述が残されていた。
『世界の理に触れし者は、失われたものを還し、乱れたものを正す』
オルフェンはその一文を見つめた。
そして、ふと眉を寄せる。
「……フィルネの森」
記憶の奥に、何かが引っかかった。
あの森には、かつて一人の魔導師が暮らしていたはずだ。
王宮から何度も招かれながら、そのすべてを断り続けた女性。
確か、名前は――。
「……フィオーレ」
オルフェンの目が見開かれた。
長い間、忘れていた名前だった。
彼は急いで別の書物を開き、古い記録を探し始める。
やがて、一枚の紙が指先に触れた。
そこには、三十年以上前の記録が残されていた。
『エレオノーラ・フィオーレ。王立魔導院からの招聘を辞退。以後、フィルネの森にて隠棲』
オルフェンは息をのんだ。
「……まさか、あの方が?」
窓の外では、夕日が王都の建物を赤く染めていた。
もし、あの森に今も彼女の血を引く者が暮らしているのだとしたら。
そして、その者が失われた原初魔法を受け継いでいるのだとしたら。
オルフェンはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
確かめる必要がある。
だが、軽率に人を向かわせるわけにはいかなかった。
エレオノーラは、生前、王宮との関わりを徹底して避けていた。
その理由を、オルフェンは少しだけ知っている。
「……今さら、静かな暮らしを乱すわけにはいかんか」
老人は深く息を吐いた。
それでも、気にならずにはいられなかった。
あの森で、いったい何が起きているのか。
そして、エレオノーラ・フィオーレが守ろうとしたものは、今もそこにあるのだろうか。
オルフェンは古い記録を閉じた。
翌朝、フィルネの森について、もう一度詳しく調べることを決めた。




