3. 公爵様の、穏やかな朝
ルシアンが目を覚ましたのは、窓の外から聞こえてきた鳥のさえずりのせいだった。
薄いカーテン越しに朝日が差し込み、部屋の中を柔らかく照らしている。枕元には小さな花瓶が置かれ、昨日はなかった淡い青色の花が生けられていた。
見知らぬ部屋だということを思い出すまで、少し時間がかかった。
昨夜、森で出会った少女に助けられ、この家に泊めてもらったのだった。
ルシアンはゆっくりと身体を起こした。
胸元に手を当てる。
痛みは、やはりなかった。
昨夜は夢でも見ているのではないかと思った。だが、一晩眠っても身体の状態は変わらない。呼吸は楽で、長年感じていた倦怠感さえ消えている。
何より驚いたのは、朝まで一度も目を覚まさなかったことだ。
呪いの痛みで夜中に起きることは珍しくなかった。ひどいときには眠ることすらできず、夜明けを待ちながら書類に目を通していたこともある。
それが昨夜は、横になってからの記憶がほとんどなかった。
「……よく眠ったな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
窓辺へ近づくと、庭の向こうに小さな温室が見えた。
朝露をまとった草花が陽の光を受け、きらきらと輝いている。
その中に、エリアナの姿があった。
長い髪を緩くまとめ、籠を片手に花壇の間を歩いている。ときどき足を止めては葉を確かめ、何かを摘み取っているようだった。
やがて彼女は一輪の花を前にしゃがみ込んだ。
ルシアンが何気なく眺めていると、彼女の手元に小さな光が灯った。
次の瞬間、花壇の一角に色とりどりの花が咲き始める。
「…………」
昨夜の話を思い出した。
彼女にとって魔法とは、日々の暮らしの中にある、ごく身近なものなのだろう。
とはいえ、朝の庭仕事に高位の魔法を使うとは思わなかった。
ルシアンはしばらくその光景を眺め、それから静かにカーテンを戻した。
どうやら、この家では驚いてばかりいることになりそうだ。
◇
「おはようございます、ルシアン様」
台所へ向かうと、エリアナが振り返った。
昨日と同じ白いワンピースに、淡い緑色のエプロンを重ねている。銀金色の髪は後ろで一つに結ばれ、耳の横には細い後れ毛が揺れていた。
「おはよう、エリアナ」
「よく眠れましたか?」
「ああ。驚くほどよく眠れたよ」
「それはよかったです。昨日はお疲れだったでしょうから」
エリアナは嬉しそうに微笑み、焼き上がったばかりのパンを籠に移した。
食卓には、卵料理と新鮮な野菜、それに小さな器に入った蜂蜜が並んでいる。
「もう少しで朝食ができます。よかったら座っていてくださいね」
「何か手伝えることは?」
「ありがとうございます。でも、もう終わるところなので」
そう言って彼女は棚からカップを二つ取り出した。
ルシアンは食卓の椅子を引きかけ、ふと手を止めた。
「エリアナ。少し聞いてもいいだろうか」
「はい?」
「君は普段、誰と食事をしているんだ?」
「普段ですか?」
「一人で暮らしていると聞いたから」
「ああ、そうですね。リュシーたちが来ることもありますけれど、基本的には一人です」
エリアナは紅茶の準備をしながら答えた。
「村の方が訪ねてくる日は、お茶をご一緒することもありますよ」
「そうか」
「どうしてですか?」
「いや、少し気になっただけだ」
食卓に並べられた二人分の食器を見て、ルシアンは何となく尋ねたくなったのだった。
王都では、食事の相手に困ることはない。仕事の付き合いもあれば、招待される夜会もある。
しかし、一人で暮らす彼女にとっては、誰かと食卓を囲む機会そのものが少ないのかもしれない。
「そういえば、昨日のスープ」
「はい」
「とても美味しかった。また食べたいと思うほどに」
エリアナはぱっと顔を明るくした。
「本当ですか? それなら、今度は違うお野菜でも作ってみますね」
「……今度?」
「あっ」
彼女は口元に手を当てた。
「すみません。ルシアン様は今日、お帰りになるんでしたね」
そう言って、少し残念そうに笑う。
その表情を見たとき、ルシアンは思いがけず言葉に詰まった。
たった一晩世話になっただけの相手だ。
ここに長居する理由など、本来はない。
王都では、自分の帰りを待っている者たちがいるだろう。森で襲撃を受けた件についても、確かめなければならないことが山ほどあった。
それなのに、彼女の言葉を聞いて最初に浮かんだのは、もう少しここにいたいという考えだった。
「……帰る前に、少し話をしたい」
「お話ですか?」
「ああ。昨日のことも含めて、君にはきちんと説明しておきたいことがある」
エリアナは不思議そうに瞬きをしたが、すぐに頷いた。
「わかりました。それなら、朝ごはんを食べてからにしましょう」
彼女は温かい紅茶を差し出した。
「お話は、お腹がいっぱいになってからの方がいいですものね」
ルシアンはカップを受け取り、思わず笑った。
「……そうだね」
その考え方は、嫌いではなかった。
◇
朝食を終えたあと、二人は庭へ出た。
エリアナが食後のお茶を庭で飲もうと提案したのだ。
家の南側には、小さな丸いテーブルと椅子が二脚置かれていた。白い木製の家具はところどころ塗装が剥げていたが、手入れは行き届いている。
周囲には背の低い花が植えられ、少し離れたところでは蜂が忙しそうに飛び回っていた。
「ここは祖母のお気に入りの場所だったんです」
エリアナはティーポットを置きながら言った。
「天気のいい日は、よく一緒にお茶を飲みました」
「気持ちのいい場所だ」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ルシアンは椅子に腰を下ろし、庭を見渡した。
不思議なほど居心地がいい。
森の中にありながら、庭には虫に食われた葉も、病気にかかった植物も見当たらない。
花の種類も多かった。王宮の庭園でも見かけないような珍しい花が、ほかの植物と自然に混じって咲いている。
「ずいぶん多くの種類を育てているんだね」
「ええ。薬になるものもありますし、綺麗だから植えているものもあります」
「この青い花は?」
ルシアンは足元に咲く花を指さした。
花弁の縁が銀色に輝く、小さな青い花だった。
「月雫草です。夜になると、少しだけ光るんですよ」
「月雫草……?」
「ご存じありませんか?」
「名前は聞いたことがある」
王立魔導院が保管する植物図鑑に、その名が載っていたはずだ。
魔力を豊富に含む希少な薬草で、百年以上前に野生種が絶滅したとされている。
確か、一株だけでも大変な価値があった。
それが、目の前の花壇には十株以上咲いている。
「……これは、どこで手に入れたんだ?」
「森の北側で見つけたんです。最初は一株だけだったんですけれど、種を採って少しずつ増やしました」
「増やせるのか?」
「はい。少し育て方に癖はありますけれど、そんなに難しくありませんよ」
エリアナは花を一輪摘むと、ルシアンに差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「……私に?」
「ええ。綺麗でしょう?」
ルシアンは差し出された花を見つめた。
もしこれが本当に月雫草なら、王都で売れば相当な金額になる。
彼女はそれを、庭に咲いた花を分けるような気軽さで渡している。
「……大切な花ではないのか?」
「大切ですよ。でも、たくさん咲いていますから」
「そういうものなのか」
「はい」
あまりに自然な返事だった。
ルシアンは苦笑しながら花を受け取った。
「ありがとう。大事にするよ」
「ふふ。そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ」
エリアナは自分のカップを手に取り、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
春の日差しが、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
ルシアンは手元の花に視線を落とした。
王都へ戻ったら、調べてみよう。
そう考えたところで、ふと疑問が浮かんだ。
この少女は、自分がどれほど珍しいものに囲まれて暮らしているのか、本当に知らないのだろうか。
「エリアナ」
「はい」
「君は、自分の魔法について、どの程度知っている?」
エリアナはカップを置いた。
「自分の魔法……ですか?」
「ああ。昨日、私の傷を治してくれただろう」
「はい」
「呪いも解いてくれたと聞いた」
「ええ」
「それが、簡単にできることではないと知っているか?」
彼女は少し考え込んだ。
「……呪いの種類によると思います」
「種類?」
「はい。普通の傷と違って、呪いにはそれぞれ癖がありますから。無理にほどこうとすると、かえって絡まってしまうこともあります」
エリアナはテーブルの上で指を動かしながら説明した。
「毛糸が絡まってしまったときみたいに、少しずつほどいてあげるんです。昨日のルシアン様の呪いは、ずいぶん古いものだったので、少し時間がかかりましたけれど」
「……なるほど」
理屈はわかった。
少なくとも、彼女が何をしているつもりなのかは。
だが、問題はそこではない。
呪いの構造を読み取り、魔力の流れを見極め、生命に影響を与えずに術式を解体する。
そんな芸当ができる魔導師など、ルシアンは一人も知らなかった。
まして、自分にかけられていたのは公爵家に代々伝わる特殊な呪いだ。
解呪を試みた魔導師が、逆に魔力を奪われたことすらある。
「祖母君は、ほかの人にも同じような魔法を教えていたのか?」
「いいえ。私だけです」
「……そうか」
「どうしてですか?」
エリアナが不思議そうに尋ねた。
ルシアンは少し迷った。
彼女に事実を伝えるべきだろうか。
その魔法がどれほど特別で、どれほど危険な関心を集めるものなのか。
少なくとも、知らないままでいていい話ではない。
「エリアナ。君が使っている魔法は、王都でも滅多に見られないものだと思う」
「そうなんですか?」
「ああ。特に、呪いを解く魔法については」
「……でも、祖母は普通に使っていましたよ?」
「祖母君は、相当な使い手だったのだろう」
「そうでしょうか」
エリアナは少し照れくさそうに笑った。
「祖母が聞いたら、きっと喜びます」
その返事に、ルシアンは口をつぐんだ。
彼女は自分の話として受け取っていないらしい。
けれど、無理に理解させようとするのも違う気がした。
まだ出会って二日目だ。
何より彼女には、身を守る方法をきちんと知ってもらう必要がある。
「一つ、約束してくれるかい?」
「約束?」
「君の魔法を、誰にでも見せないことだ」
エリアナは目を瞬かせた。
「祖母にも、同じことを言われました」
「なら、これからも守ってほしい」
「……はい。わかりました」
素直に頷く彼女を見て、ルシアンは少し安心した。
ところが、エリアナは続けて尋ねた。
「あの、ルシアン様」
「何だい?」
「怪我をした方がいたときも、魔法を使わない方がいいのでしょうか?」
思いがけない問いだった。
ルシアンはすぐには答えられなかった。
彼女の立場を考えれば、使わない方が安全だ。
しかし、それでは彼女が大切にしているものまで奪ってしまう。
「……君は、どうしたい?」
「助けられるなら、助けたいです」
迷いのない返事だった。
ルシアンは彼女を見つめた。
「昨日も、ルシアン様がとても苦しそうだったので……。治せるかもしれないのに、そのままにはできませんでした」
「……そうか」
「でも、魔法をあまり見せない方がいいのなら、気をつけますね」
少し困ったように笑うエリアナを見て、ルシアンは静かに首を振った。
「いや。君の優しさまで変える必要はない」
「……?」
「ただ、困ったことが起きたら、一人で抱え込まないでほしい」
「困ったこと、ですか?」
「ああ。もし誰かに魔法のことで無理な頼みをされたり、嫌な思いをしたりすることがあれば、私に知らせてくれ」
エリアナは驚いたように目を見開いた。
「でも、ルシアン様にご迷惑が……」
「迷惑ではないよ」
彼は穏やかに言った。
「君は私の命を救ってくれた。それに報いる機会を、少しくらい与えてほしい」
エリアナはしばらく彼を見つめていた。
やがて、ゆっくりと微笑む。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見たとき、ルシアンは胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
昨日も、彼女の笑顔を見て同じような気持ちになった。
まだ名前を知ったばかりの相手なのに。
自分でも不思議だった。
◇
その頃、森の外れでは一団の騎士たちが馬を進めていた。
「本当にこちらで間違いないんですか?」
若い騎士が、隣を進む男性に尋ねる。
深い茶色の髪をした青年は、手元の地図を確かめながら頷いた。
「ああ。昨日、閣下が最後に確認されたのは、この森の東側だ」
青年の名は、ノア・ヴェルディ。
アルヴェリス公爵家に仕える騎士であり、ルシアンの護衛を任されている一人だった。
「ですが、昨日の襲撃は……」
「わかっている。相手は相当な手練れだった」
ノアの声が低くなる。
昨日、王都へ戻る途中だったルシアン一行は、突然武装した集団に襲われた。
護衛たちは応戦したものの、敵の狙いは最初からルシアン一人だった。
混乱の中、ルシアンは森へ逃れ、それきり行方がわからなくなっていた。
「……閣下に何かあったら」
隣の騎士がつぶやく。
ノアは手綱を握り直した。
「余計なことを考えるな。今は捜すことだけに集中しろ」
「はい!」
そう答えた騎士の声にも、焦りがにじんでいた。
アルヴェリス公爵の身体が弱いことは、公爵家の者なら誰もが知っている。
長時間の戦闘に耐えられる状態ではない。
しかも、昨日は深い傷を負っていた。
一刻も早く見つけなければならなかった。
「……頼むから、無事でいてくださいよ」
ノアは小さくつぶやき、馬を走らせた。
◇
「そういえば、ルシアン様」
庭でのお茶が終わりかけた頃、エリアナが何かを思い出したように顔を上げた。
「森で倒れていらしたとき、外套がずいぶん傷んでいましたよね」
「ああ……そうだったね」
「お洗濯はしましたけれど、破れているところはそのままなんです。よかったら、お直ししましょうか?」
「いや、そこまでしてもらうわけには」
「でも、そのままだと寒いでしょう?」
確かに、外套は大きく裂けていた。
王都へ戻れば新しいものはいくらでも用意できるが、今は替えの服もない。
「……お願いしてもいいだろうか」
「もちろんです」
エリアナは嬉しそうに立ち上がった。
「少し待っていてくださいね」
家の中へ戻り、しばらくして破れた外套を持ってくる。
ルシアンが見守る中、彼女は外套を膝の上に広げた。
「この辺りですね」
裂け目に指を添える。
次の瞬間、淡い光が布地を包んだ。
ほつれていた糸がひとりでに動き、切れた部分が元どおりにつながっていく。
数秒後には、傷ひとつない外套が彼女の手の中にあった。
「はい、できました」
エリアナは満足そうに頷いた。
「……ありがとう」
ルシアンは外套を受け取った。
破れていた箇所を確かめる。
縫い目はない。
布そのものが、最初から破れていなかったかのようだった。
「……エリアナ」
「はい?」
「今の魔法も、祖母君から?」
「ええ。お洋服が破れたときに便利なんです」
「……そうだろうね」
「ルシアン様も、よく使われますか?」
ルシアンは一瞬、返事に困った。
「いや。私は裁縫が得意ではなくてね」
「そうなんですね」
エリアナは何の疑問も持たずに頷いた。
どうやら、彼が魔法を使わない理由を裁縫の腕前の問題だと考えたらしい。
ルシアンは思わず笑ってしまった。
「……何か、おかしかったですか?」
「いや、すまない。君と話していると、退屈しないなと思って」
「そうですか?」
「ああ」
エリアナは少し考え、それから嬉しそうに笑った。
「私も、ルシアン様とお話しするのは楽しいです」
ルシアンは、その言葉に返事をするのが少し遅れた。
たぶん、彼女に深い意味はない。
けれど、それがわかっていても嬉しかった。
春風が庭を吹き抜ける。
足元の青い花が揺れ、遠くで鳥が鳴いた。
こんな穏やかな時間が、もう少し続けばいい。
そう思ったときだった。
「エリアナ!」
温室の方からリュシーが飛んできた。
いつものような楽しげな様子ではなかった。
「どうしたの?」
「人間がいっぱい来てる!」
「人間?」
「森の入り口の方! 馬もいるよ!」
ルシアンはすぐに立ち上がった。
「……騎士か?」
「わかんない。でも、みんな何か探してるみたい」
その言葉を聞いて、ルシアンはおおよその事情を察した。
公爵家の者たちだろう。
昨日から自分を捜していたに違いない。
「エリアナ」
「はい」
「どうやら、迎えが来たようだ」
「お迎え……?」
エリアナは驚いたように瞬きをした。
「ルシアン様のお知り合いですか?」
「おそらくね」
ルシアンは外套を羽織り、彼女に向き直った。
「昨日から世話になった。本当にありがとう」
「いいえ。お元気になられてよかったです」
エリアナは微笑んだ。
けれど、その声を聞いて、ルシアンはわずかに寂しさを覚えた。
彼女はきっと、何の未練もなく自分を見送るのだろう。
森で助けた、ただの旅人として。
それが少しだけ残念だった。
「……エリアナ」
「はい?」
「王都へ案内する約束、覚えているかい?」
「もちろんです」
彼女の顔が明るくなった。
「大きな図書館があるんですよね?」
「ああ。それに、君が気に入りそうな場所がほかにもたくさんある」
「楽しみです」
「必ず迎えに来るよ」
そう言ったあとで、ルシアンは自分でも少し驚いた。
迎えに来る。
ただ案内すると約束しただけなのに、いつの間にか、もう一度この森を訪れるつもりになっていた。
エリアナは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。お待ちしていますね」
その言葉が、思っていた以上に胸に響いた。
ルシアンは小さく微笑んだ。
「ああ。約束だ」
そのとき、森の向こうから馬のいななきが聞こえた。
続いて、聞き覚えのある声が響く。
「閣下ー! どちらにいらっしゃいますか!」
ルシアンは額に手を当てた。
「……やれやれ」
声の主は間違いなくノアだった。
もう少し静かに捜せないものだろうか。
一方、エリアナは不思議そうに首を傾げていた。
「……閣下?」
ルシアンは彼女を見た。
「エリアナ。実は、まだ話していないことがあるんだ」
「はい?」
「私の家のことなんだが……」
そこまで言いかけたところで、木々の間から騎士たちが姿を現した。
先頭にいた茶髪の青年が、ルシアンを見つけて目を見開く。
「閣下!」
ノアは馬から飛び降り、駆け寄ってきた。
「ご無事だったんですね! 昨日からどれだけ心配したと……!」
「ノア、落ち着け」
「落ち着いていられますか! お怪我は? お身体は大丈夫なんですか?」
「問題ない」
「問題ないって、昨日あれだけの傷を……」
ノアの視線が、ルシアンの胸元へ向かった。
破れていたはずの外套は元に戻り、顔色も驚くほどいい。
むしろ、今まで見たことがないほど健康そうだった。
「……閣下?」
「何だ」
「本当に、閣下ですよね?」
「……ほかの誰に見える」
ルシアンは呆れたように答えた。
そのやり取りを、エリアナは少し離れた場所から眺めていた。
騎士たちが揃ってルシアンに頭を下げる。
先ほどから聞こえる『閣下』という呼び方。
どうやら、ただの旅人ではなかったらしい。
「あの……」
控えめに声をかけると、ノアがようやく彼女の存在に気づいた。
「……え?」
ノアの目が丸くなる。
森の奥の小さな家。
その庭で、公爵閣下の隣に立つ美しい少女。
一体どういう状況なのか、まるで理解できなかった。
「閣下……こちらの方は?」
ルシアンはエリアナに目を向けた。
「私の命の恩人だ」
「……命の恩人?」
「ああ。昨日、森で倒れていた私を助けてくれた」
ノアは慌てて姿勢を正した。
「それは……! 閣下をお助けいただき、本当にありがとうございます!」
突然深々と頭を下げられ、エリアナは驚いて両手を振った。
「い、いえ! そんな、大したことはしていませんから!」
ノアは顔を上げた。
そして、ルシアンを見た。
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、どこか諦めたような笑みを浮かべている。
「……閣下?」
「気にするな。彼女は本気でそう思っている」
「はあ……」
ノアには、ますます事情がわからなくなった。
そのとき、エリアナが思い出したように尋ねた。
「あの、ルシアン様」
「何だい?」
「皆さんが『閣下』と呼んでいらっしゃいますけれど……」
「ああ」
ルシアンは一度言葉を切り、穏やかに続けた。
「きちんと名乗っていなかったね。私はルシアン・アルヴェリス。アルヴェリス公爵家の当主だ」
エリアナは瞬きをした。
「……公爵様?」
「ああ」
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
そして、エリアナはとても真剣な表情で口を開いた。
「……それでは、昨日のお夕飯は、もう少し豪華なものをご用意した方がよかったでしょうか?」
ノアが固まった。
騎士たちも、どう反応していいのかわからない様子だった。
ルシアンは一瞬目を見開き、それから堪えきれずに笑い出した。
「……いや」
笑いながら、静かに首を振る。
「昨日のスープは、本当に美味しかったよ」
エリアナはほっとしたように胸をなで下ろした。
「よかったです」
その様子を見ながら、ノアは別の意味で言葉を失っていた。
自分が仕える公爵が、こんなふうに声を上げて笑うところなど、これまで一度も見たことがなかったからだ。
春の光が、二人を柔らかく照らしていた。
ノアは、今まで見たことのない主君の表情と、その隣で何事もなかったように微笑む少女を交互に見つめた。
どうやら、自分が知らない間に何かが起きたらしい。
それも、相当大きな何かが。
少なくとも、昨日までのルシアン・アルヴェリスが、森の中で出会ったばかりの少女にあれほど穏やかな笑顔を向けることなど、考えられなかった。
ノアはそっと息を吐いた。
詳しい話を聞くのは、もう少しあとになりそうだった。




