2.森の家の、不思議な客人
ルシアン・アルヴェリスは、目の前に置かれたスープをしばらく見つめていた。
白い陶器の器には、柔らかく煮込まれた野菜がたっぷりと入っている。小さく切られた人参や玉ねぎ、見慣れない緑色の葉。湯気とともに、バターと香草の優しい香りが漂っていた。
「お口に合うといいのですけれど」
向かいに座ったエリアナが、少し心配そうに言った。
「森で採れた野菜と薬草を使ったスープです。身体を温めるのにいいんですよ」
「……薬草?」
「はい。苦いものは入れていませんから、安心してくださいね」
そう言って微笑む彼女に、ルシアンは思わず口元を緩めた。
自分が何を警戒していると思われたのだろう。
「ありがとう。いただこう」
スプーンでスープをひと口すくう。
口に含んだ瞬間、野菜の甘みと柔らかな香りが広がった。
「……美味しい」
思わず漏れた言葉に、エリアナの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ。とても」
「よかった。おかわりもありますから、遠慮なくおっしゃってください」
ルシアンはもう一度スープを口に運んだ。
公爵家では、毎日一流の料理人が食事を用意する。王宮の晩餐会にも何度となく出席してきた。
それでも、この小さな家で出された素朴なスープは、不思議と心に残る味がした。
久しぶりに、食事が楽しみだと思えた。
それだけでも十分に驚くべきことだった。
幼い頃から抱えていた呪いは、身体を蝕むだけではなかった。体調の悪い日には食事を受け付けず、ひどいときには水を飲むことさえ苦痛だった。
今はどうだろう。
身体が軽い。
胸の奥に巣食っていた冷たい痛みもない。
こんなふうに、何の不安もなく食事をした記憶があっただろうか。
「ルシアン様?」
呼びかけられて顔を上げると、エリアナがこちらを見ていた。
「何か、気になることでもありましたか?」
「いや……少し、考え事をしていた」
「そうでしたか。お身体がまだつらいのかと思ってしまいました」
「心配をかけたね。もう大丈夫だ」
「それならよかったです」
エリアナは安心したように笑い、自分のスープを食べ始めた。
その仕草を眺めながら、ルシアンはあらためて彼女のことを考えた。
エリアナ・フィオーレ。
聞き覚えのない名前だった。
貴族の家名ではない。少なくとも、彼が知る限りでは。
年齢は十八か十九ほどだろうか。
淡い銀金色の髪と、澄んだ緑色の瞳。整った容姿もさることながら、彼女には人を安心させるような柔らかい雰囲気があった。
だが、その外見以上に不可解なのは、やはり彼女の魔法だった。
二十七年間、誰にも解けなかった呪い。
その呪いを、彼女は何でもないことのように取り除いてしまった。
「エリアナ」
「はい?」
「一つ、尋ねてもいいだろうか」
「もちろんです」
「君は、魔導師なのか?」
エリアナは少し考えるように首を傾げた。
「魔導師……なのでしょうか」
「……違うのか?」
「祖母から魔法は教わりましたけれど、魔導院に所属したことはありませんし、資格も持っていませんから」
「では、普段は何を?」
「薬を作っています。近くの村の方が、ときどき買いに来てくださるんです」
「薬師ということか」
「はい。たぶん、それが一番近いと思います」
たぶん。
その言葉に、ルシアンはわずかに眉を動かした。
職業すら曖昧な少女が、王立魔導院の総力をもってしても解けなかった呪いを消したというのか。
「魔法は、すべて祖母君から?」
「ええ。小さい頃から少しずつ教えてもらいました」
「祖母君も薬師だったのか?」
「はい。薬を作るのがとても上手で、村の方にも頼りにされていました」
エリアナの声が少しだけ懐かしそうになる。
「三年前に亡くなってしまったんですけれど……今でも、わからないことがあると祖母の本を読むんです」
「そうだったのか。すまない、つらいことを聞いた」
「いいえ。祖母は長生きでしたし、最期まで元気だったんですよ」
エリアナは穏やかに微笑んだ。
「最後の日も、いつもどおり一緒にお茶を飲みました。私が焼いたお菓子を三つも食べてくれて」
そこで少しだけ、目を伏せる。
「……もう一度、一緒にお茶を飲めたらいいなとは思いますけれど」
ルシアンは何も言わず、彼女を見つめた。
その横顔には寂しさがあった。
けれど、無理に明るく振る舞っているようには見えない。
大切な人との別れを、少しずつ受け入れながら生きてきたのだろう。
「きっと、良い祖母君だったのだろうね」
「はい。とても」
エリアナは嬉しそうに頷いた。
「少し変わった人でしたけれど」
「変わった?」
「ええ。私が魔法を使うと、よく『人前ではあまり見せないようにね』と言っていたんです」
ルシアンの手が止まった。
「……理由は?」
「魔法が使えると、いろいろお願いされてしまうから、でしょうか」
エリアナは真剣に考え込んだ。
「祖母は静かな暮らしが好きでしたから。私にも、好きなことをして暮らしなさいって、いつも言っていました」
ルシアンはゆっくりとスプーンを置いた。
おそらく、その祖母は知っていたのだ。
エリアナの魔法が、普通ではないことを。
そして、彼女が世間からどのような目で見られるかも。
「……その言いつけは、今も守っているのか?」
「はい。村では、あまり大きな魔法は使わないようにしています」
「大きな魔法?」
「雨が降らないときに少し雨雲を呼んだり、畑が荒れてしまったときに土を元気にしたりするくらいです」
ルシアンは沈黙した。
「……雨雲を、呼ぶ?」
「はい。でも、雨が降りすぎないようにするのは少し難しくて。最初の頃は祖母によく注意されました」
エリアナは恥ずかしそうに笑った。
「一度だけ、村に三日も雨を降らせてしまったことがあるんです」
「……そうか」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
王国には天候を操る魔法が存在する。
ただし、非常に高度な術式を必要とするうえ、広い範囲に作用させるには複数の魔導師が協力しなければならない。
それを彼女は、失敗談として話している。
(……いったい、どんな教育を受けてきたんだ)
ルシアンは額に手を当てたくなった。
しかし、目の前の少女はあまりにも自然体だった。
自慢しているわけでも、彼を驚かせようとしているわけでもない。
本当に、それが普通のことだと思っているのだろう。
◇
食事を終えた頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
エリアナが食器を片づけようとすると、ルシアンが立ち上がった。
「私も手伝おう」
「えっ?」
彼女は目を丸くした。
「でも、まだ休んでいてください。今日は大きなお怪我をされていたんですから」
「もう問題ない。それに、食事までご馳走になっている」
「そんなこと、気にしなくていいんですよ」
「私が気になるんだ」
穏やかに言われ、エリアナは困ったように彼を見上げた。
「……それなら、お皿を運んでいただいてもいいですか?」
「もちろん」
ルシアンは器を手に取り、彼女の後について台所へ向かった。
広い公爵邸では、自分で食器を運ぶことなどほとんどない。
それでも、何をすればいいのか尋ねながら働く時間は、不思議と悪くなかった。
エリアナは洗い物をしながら、時折こちらを見て微笑んだ。
そんな何気ない仕草に、ルシアンは少しずつ緊張がほどけていくのを感じていた。
そのときだった。
「エリアナ!」
甲高い声がして、窓の隙間から何かが飛び込んできた。
ルシアンは反射的に身構えた。
小さな光が部屋の中をくるりと回り、エリアナの肩に降り立つ。
「ねえ、今日のお菓子、もうないの?」
「リュシー。さっき食べたでしょう?」
「だって、お腹が空いたんだもん」
「もう……」
エリアナは呆れたように笑った。
一方、ルシアンは言葉を失っていた。
少女の姿をしているが、人間ではない。
半透明の羽。
淡い緑色の髪。
身体の周囲に漂う、清らかで濃密な魔力。
「……精霊?」
思わず漏れた声に、小さな少女が振り向いた。
「あ、人間!」
リュシーはルシアンをじっと見つめた。
「起きたんだ」
「ああ……」
「エリアナ、この人、もう元気なの?」
「ええ。お夕飯もきちんと食べられたから、もう大丈夫だと思うわ」
「ふうん」
リュシーは腕を組み、ルシアンの周りを一周した。
それから、彼の顔をのぞき込む。
「……エリアナに変なことしたら、許さないからね」
「リュシー!」
エリアナが慌てて声を上げた。
「そんなこと言っちゃだめでしょう?」
「だって、人間ってすぐ変なこと考えるんだもん」
「ルシアン様は、そんな方じゃないわ」
「まだ会ったばっかりなのに?」
「それは……そうだけれど」
エリアナは少し考え、ルシアンを見上げた。
「でも、きっと優しい方だと思うの」
その言葉に、ルシアンは胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
まだ出会って数時間。
それなのに、彼女は何の迷いもなく自分を信じている。
その無防備さが心配でもあり、不思議と嬉しくもあった。
「……ありがとう」
彼がそう言うと、エリアナは柔らかく笑った。
「いいえ」
リュシーは二人を交互に見つめ、面白くなさそうに頬を膨らませた。
「……なんか、気に入らない」
「リュシー?」
「なんでもない!」
そう言って、棚の上に置かれた焼き菓子へ飛んでいってしまった。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「……エリアナ」
「はい?」
「あの精霊とは、いつから?」
「リュシーですか? 私が小さい頃からですよ」
「ずっと、ここに?」
「ええ。ほかにも何人か遊びに来るんですけれど、リュシーが一番よく来るんです」
「……ほかにも?」
「はい。水の精霊や、花の精霊も。あ、たまに森の長老も来ますよ」
「森の長老?」
「とても大きな白い鹿の姿をしているんです。背中に小さな花が咲いていて、角が銀色で……」
ルシアンは目を閉じた。
白い鹿。
銀の角。
背に花を宿す、森の守護者。
古い神話にしか登場しない、伝説の大精霊。
王立魔導院には、その姿を一目見るために生涯を研究に捧げた魔導師がいる。
そんな存在が、この家には時折遊びに来るという。
(……驚くのは、もうやめた方がいいのかもしれない)
そう思いながらも、彼はひそかに苦笑した。
◇
夜が深まる頃、エリアナはルシアンを寝室へ案内した。
「今日はゆっくり休んでくださいね」
「君はどうするんだ?」
「私は奥の小部屋で休みます。祖母が使っていた部屋があるので」
「それでは、君の部屋を私が使っているのか?」
「はい。でも、気にしないでください。あちらにもちゃんとベッドがありますから」
ルシアンは少し眉を寄せた。
彼女にそこまで世話をかけてしまっていることが、申し訳なかった。
「明日には、帰る方法を考えよう」
「お家は遠いんですか?」
「ああ。王都にある」
「王都……!」
エリアナの瞳が輝いた。
「私、一度も行ったことがないんです」
「そうなのか?」
「はい。祖母と森の外へ出かけたことはありますけれど、王都までは遠いからって」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「大きな図書館があるんですよね? それに、夜になると街灯に魔法の光が灯るって聞きました」
「そうだ。中央広場には噴水もある」
「噴水……!」
その声には、隠しきれない憧れがにじんでいた。
ルシアンは、つい微笑んでしまった。
王都の貴族たちは、豪華な宝石や珍しい調度品を手に入れるために競い合う。
けれど彼女は、街の噴水の話だけで、こんなにも嬉しそうな顔をする。
「……いつか、案内しようか」
何気なく口をついた言葉だった。
エリアナが驚いたように彼を見る。
「よろしいんですか?」
「ああ。君が望むなら」
「でも、ご迷惑では……」
「迷惑などではない」
少し強く答えてしまい、ルシアンは自分でも驚いた。
エリアナも目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。とても楽しみです」
その笑顔を見た瞬間、ルシアンは、自分が今した約束を必ず守ろうと思った。
まだ、彼女のことをほとんど知らない。
自分が何者なのかも、きちんと話していない。
それでも。
もう一度、彼女がこんなふうに笑うところを見たい。
ただ、それだけだった。
◇
エリアナが部屋を出ていくと、ルシアンは窓辺へ歩み寄った。
夜の森は静かだった。
淡い月明かりに照らされ、庭の白い花がかすかに揺れている。
遠くで梟の声がした。
王都では、夜になっても人々の声が絶えない。
公爵邸も静かではあるが、常に使用人や護衛の気配があった。
こんなにも深い静けさに包まれた夜は、いつ以来だろう。
ルシアンはそっと胸元に触れた。
痛みはない。
何度確かめても、そこには何もなかった。
生まれた瞬間から背負わされてきた呪い。
それは、アルヴェリス公爵家の血を引く者に代々受け継がれるものだった。
父も、祖父も、その呪いに苦しんだ。
父は三十七歳で亡くなっている。
ルシアン自身も、あと何年生きられるかわからないと告げられていた。
だから、未来のことは考えないようにしてきた。
誰かを愛することも。
家族を持つことも。
自分には許されないと、ずっと思っていた。
それなのに。
今日、森で出会った一人の少女が、その運命をあっさりと変えてしまった。
「……エリアナ・フィオーレ」
小さく名前をつぶやく。
彼女は一体、何者なのだろう。
どうしてあれほどの魔法を使えるのか。
疑問は尽きない。
けれど、不思議と今は、その答えを急ぐ気にはなれなかった。
まずは、もう少し彼女と話してみたい。
どんな本が好きで、どんな花を育てているのか。
どうしてあんなふうに、見知らぬ人間に優しくできるのか。
そんな、魔法とは関係のないことを知りたいと思った。
ルシアンは窓の外を眺めながら、静かに息を吐いた。
明日が来るのを楽しみに思う。
それがこんなにも穏やかな気持ちなのだと、彼は初めて知った。
◇
一方、その頃。
エリアナは小部屋の机に向かい、古い日記帳を開いていた。
祖母が亡くなってから、彼女はときどき、その日にあった出来事を簡単に書き残している。
『今日は森で怪我をした方を助けた。
ルシアン様という、とても礼儀正しい方。
呪いがあったので少し心配だったけれど、無事に治ってよかった。
スープも美味しいと言ってくださった。
いつか王都を案内してくださるそう。
大きな図書館が楽しみ。』
そこまで書いて、エリアナはペンを止めた。
少しだけ考え、最後に一行付け加える。
『明日は、何を作ろうかしら。』
日記帳を閉じると、リュシーが枕元から顔を出した。
「ねえ、エリアナ」
「なあに?」
「あの人、まだいるの?」
「ええ。明日には帰る方法を考えるって」
「ふうん……」
リュシーは何か言いたそうに口を尖らせた。
「どうしたの?」
「……別に」
そう言いながら、エリアナの肩にぴたりとくっつく。
エリアナは小さく笑って、その頭を指先でなでた。
「おやすみ、リュシー」
「……おやすみ」
しばらくすると、小さな寝息が聞こえ始めた。
窓の外では、春の風が木々を優しく揺らしている。
エリアナは明日の朝食のことを考えながら、静かに目を閉じた。
その夜、王都では、行方のわからなくなったアルヴェリス公爵を捜すため、騎士たちが慌ただしく動き回っていた。
けれど当の本人は、森の奥の小さな家で、生まれて初めてといっていいほど穏やかな眠りについていた。
そして彼を助けた少女は、自分が王国有数の名門貴族を客人として迎えていることなど、夢にも思っていなかった。




