1. 森の小さな薬師
春の朝は、いつも花の香りがする。
開け放した窓から柔らかな風が入り込み、薄いレースのカーテンを揺らしていた。
窓辺には白い小花が咲き、丸いテーブルの上では、淹れたばかりの紅茶から細い湯気が立ちのぼっている。
エリアナ・フィオーレは、そんな穏やかな朝の時間が好きだった。
「……あら?」
読みかけの本から顔を上げたエリアナは、窓辺に置かれた鉢植えに目を留めた。
昨日まで元気だった白い花が、少しだけうなだれている。
「お水が足りなかったのかしら」
椅子から立ち上がり、そっと花弁に触れる。
指先から淡い金色の光がこぼれた。
すると、うつむいていた花がゆっくりと顔を上げ、細い茎を伸ばした。閉じていたつぼみがほころび、小さな白い花が次々と咲いていく。
「よかった。これで大丈夫ね」
満足そうに微笑むと、エリアナは鉢植えを日の当たる場所へ移した。
彼女にとって、それは何でもない朝の出来事だった。
もっとも、王都の魔導師がこの光景を目にしていたなら、驚きのあまり声を失っていただろう。
植物に生命力を直接与える魔法など、今の時代には存在しないとされているのだから。
けれど、エリアナはそんなことを知らなかった。
幼い頃から祖母に教わった魔法は、どれも彼女にとって当たり前のものだった。
「今日は温室のお手入れもしなくちゃ」
そうつぶやき、冷めないうちに紅茶をひと口飲む。
窓の外には、柔らかな春の日差しに包まれた庭が広がっていた。
◇
エリアナが暮らしているのは、王都から馬車で五日ほど離れたフィルネの森。
古い木々が生い茂る森の奥に、クリーム色の壁と青灰色の屋根を持つ小さな家が建っている。
家の周りには季節の花が咲き、裏庭には薬草畑。隣には、祖母が大切にしていたガラス張りの温室があった。
エリアナは、この家で祖母と二人で暮らしていた。
三年前に祖母が亡くなってからは一人暮らしになったけれど、寂しいと感じることはそれほど多くない。
森にはたくさんの動物がいるし、ときどき近くの村から薬を求める人が訪ねてくる。
それに何より、家には少し変わった友人たちがいた。
「エリアナ!」
鈴を鳴らしたような声とともに、開いた窓から小さな影が飛び込んできた。
淡い緑色の髪に、透き通るような羽。
手のひらほどの大きさの少女が、ふわりとテーブルの上に降り立つ。
「おはよう、リュシー」
「おはよう! ねえ、昨日のお菓子は?」
風の精霊、リュシー。
エリアナが幼い頃から親しくしている友人で、甘いものには目がない。
「昨日の焼き菓子なら、棚の上にあるわよ」
「やった!」
「でも、その前に朝ごはんを食べなくちゃ」
「精霊はごはんを食べなくても平気だもん」
「そうなの? だったら、お菓子もいらない?」
「いる!」
あまりに素早い返事に、エリアナは思わず笑ってしまった。
小皿に焼き菓子を二つ並べて差し出すと、リュシーは嬉しそうに両手で抱えた。
「エリアナのお菓子、大好き!」
「ありがとう。今日は蜂蜜を少し多めに入れたの」
「だから甘いんだ!」
満足そうに頬張るリュシーを眺めながら、エリアナも椅子に腰かける。
祖母が生きていた頃から、家にはよく精霊たちが訪れていた。
風の精霊、水の精霊、花を好む小さな精霊。
ときには、森の奥深くに住む大きな精霊が訪ねてくることもある。
だからエリアナは、精霊と話すことを特別だと思ったことがない。
王国では、精霊の姿を見るだけでも幸運だとされていることなど、知る機会もなかった。
「そうだ、エリアナ」
二つ目の焼き菓子を食べ終えたリュシーが、不意に顔を上げた。
「森の東側、なんだか変なの」
「変?」
「うん。昨日の夜から、魔力の流れがおかしいんだよ。森の子たちも嫌がってる」
エリアナは窓の外へ視線を向けた。
東の森は、珍しい薬草がよく採れる場所だった。
昨日は強い雨が降っていたから、その影響かもしれない。
「あとで見に行ってみるわね」
「一人で行くの?」
「ええ。今日はちょうど、月白草も摘みに行こうと思っていたから」
「じゃあ、リュシーも行く!」
「もちろん。お願いできる?」
嬉しそうに羽を震わせるリュシーを見て、エリアナは微笑んだ。
それから読みかけの本を閉じ、棚に戻す。
深い青色の表紙には、金色の古代文字が刻まれていた。
『星の理と世界の根源』
かつて王国最高位の魔導師ですら解読できなかったとされる古い魔導書。
けれどエリアナにとっては、幼い頃、祖母が寝物語の代わりに読んでくれた懐かしい本でしかなかった。
「続きは夜にしましょう」
本の背表紙を軽くなで、彼女は籠を手に取った。
◇
昼過ぎの森は、木漏れ日が美しかった。
若葉の間から差し込む光が地面に淡い模様を描き、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。
エリアナは足元に咲く小さな花を踏まないよう、ゆっくりと森の小道を歩いていた。
「月白草、たくさんあるといいわね」
「この前の場所なら、いっぱい咲いてたよ!」
リュシーが楽しそうに先を飛んでいく。
しばらく進んだところで、エリアナは足を止めた。
「……あら?」
いつもなら、この辺りには小鳥がたくさんいるはずだった。
けれど、今日は鳴き声が聞こえない。
風もないのに木の葉がかすかに震え、周囲の空気が妙に重たく感じられる。
「ここだよ。変なのは」
リュシーが不安そうにエリアナの肩へ降り立った。
「うん……少し、苦しそうね」
「苦しそう?」
「ええ。森が」
エリアナは木々の間へ視線を向けた。
そこには、黒く変色した地面が広がっていた。
草花は枯れ、木の根元には見慣れない黒い模様が浮かんでいる。
まるで、何かが大地の内側から生命を奪っているようだった。
「かわいそうに……」
エリアナはしゃがみ込み、そっと土に触れた。
冷たい。
ただの土の冷たさではない。
指先を通して伝わってくる魔力が、複雑に絡まり合っていた。
「何かが引っかかっているのね」
「エリアナ、触って大丈夫?」
「ええ。たぶん、少し整えてあげればよくなると思うわ」
彼女は静かに目を閉じた。
意識を地中へ向けると、いくつもの魔力の流れが見えてくる。
その中に、黒く濁った細い糸のようなものがあった。
「……ここかしら」
絡まった糸をほどくように、そっと魔力を流す。
淡い金色の光が指先から広がった。
黒く変色していた土が、本来の柔らかな色を取り戻していく。
枯れた草が起き上がり、木々には新しい芽が生まれた。
やがて、小さな白い花が一輪、二輪と咲き始める。
「あ、よかった」
エリアナはほっと息をついた。
「これなら、もう大丈夫ね」
リュシーはしばらく地面を見つめていたが、やがて不思議そうに首を傾げた。
「……エリアナって、やっぱり変」
「え?」
「ううん。なんでもない!」
「そう?」
少し気になったものの、リュシーが楽しそうに飛び回り始めたので、エリアナも深く考えなかった。
立ち上がり、服についた土を払う。
彼女が今消し去ったのは、数百年にわたって森の地下に封じられていた古代の呪詛だった。
王国の魔導師たちが幾度となく調査を重ね、封印することしかできなかったもの。
それをエリアナは、ほんのわずかな時間で浄化してしまったのである。
もちろん、本人にその自覚はない。
「さて、薬草を摘んで帰りましょうか」
そう言って籠を持ち直した、そのときだった。
がさり、と近くの茂みが揺れた。
「……?」
エリアナは音のした方を振り向く。
木の根元に、何かが倒れていた。
最初は大きな動物かと思った。
けれど、近づくにつれて、それが人間だと気づく。
「まあ……!」
エリアナは慌てて駆け寄った。
倒れていたのは、若い男性だった。
銀灰色の髪が額にかかり、整った顔はひどく青白い。
黒い外套はところどころ破れ、胸元には血がにじんでいた。
「大変……!」
エリアナは膝をつき、男性の顔をのぞき込んだ。
「聞こえますか?」
返事はない。
そっと手首に触れると、かすかに脈が感じられた。
「……よかった」
生きている。
けれど、傷は深そうだった。
エリアナは外套を少し開き、傷口を確かめた。
刃物で切られたような傷がいくつもあり、胸の辺りには黒い痣が広がっている。
しかも、その痣からは先ほどの大地と同じ、不快な魔力が感じられた。
「呪いまで……」
エリアナは眉を寄せた。
祖母から、人にかけられた呪いは慎重に扱うよう教えられていた。
無理に取り除くと、相手の身体を傷つけてしまうことがあるらしい。
「大丈夫ですよ。今、治しますからね」
意識のない男性にそう声をかけ、胸元へ手をかざす。
指先から、柔らかな光がこぼれた。
光は傷口を包み込み、ゆっくりと身体の内側へ浸透していく。
裂けていた皮膚が塞がり、失われた血が満たされていく。
やがて、黒い痣が少しずつ薄くなり始めた。
「……あら?」
エリアナは小さく首を傾げた。
痣は消えかけているのに、その奥から次々と黒い糸のようなものが現れる。
まるで、身体の深いところまで根を張っているかのようだった。
「ずいぶん長いこと、苦しかったのね……」
思わずつぶやく。
これほど深く染みついた呪いなら、きっと長い間、痛みを抱えていたはずだ。
エリアナはもう一度、静かに魔力を流した。
今度は傷を治すのではなく、身体の内側で絡まった黒い糸を、一つずつ丁寧にほどいていく。
やがて最後の一本が消えたとき、男性の表情がわずかに和らいだ。
「……これで大丈夫」
エリアナは安堵の息を漏らした。
けれど、男性は目を覚まさない。
空を見上げると、木々の隙間から見える陽が少し傾き始めていた。
「どうしましょう。ここに寝かせておくわけにはいかないわよね」
「おうちに連れて帰る?」
リュシーが尋ねる。
「そうね。それがいいと思う」
「知らない人なのに?」
「でも、困っている人を放っておけないもの」
そう答えると、エリアナは男性の肩にそっと手を置いた。
足元に金色の魔法陣が浮かび上がる。
幾重にも重なった美しい紋様がゆっくりと回転し、二人を柔らかな光が包み込んだ。
「それじゃあ、帰りましょうか」
次の瞬間。
森の中から、二人の姿が消えた。
◇
同じ頃、王都の王立魔導院では、異変が起きていた。
「……これは、どういうことだ?」
院長室に置かれた大きな水晶を見つめ、オルフェン・ヴァイスは低くつぶやいた。
王国最高位の魔導師である彼は、長年にわたり大陸各地の魔力を観測してきた。
その水晶には、古代の呪詛が封印されている地域が黒い光として映し出される。
そのうちの一つが、つい先ほど消えた。
「院長!」
若い魔導師が慌てて部屋へ飛び込んできた。
「フィルネの森の呪詛反応が消失しました!」
「……やはり、そうか」
「封印が解けたのでしょうか?」
「いや……」
オルフェンは水晶に手をかざした。
幾重もの魔法陣が現れ、森の魔力を詳しく映し出す。
だが、そこにあるはずの黒い魔力は、どこにも見当たらなかった。
「封印が解けたのなら、呪詛が外へ漏れ出すはずだ」
「では、いったい……」
「消えたのだ」
「……消えた?」
「呪詛そのものが、跡形もなく」
若い魔導師は言葉を失った。
数百年前から存在する呪いを、完全に消し去る。
そんなことができるはずがない。
少なくとも、現代の魔法では不可能だった。
オルフェンはしばらく黙り込み、やがて古い書物の並ぶ棚へ視線を向けた。
「……まさかな」
その声は、誰にも聞き取れないほど小さかった。
◇
森の小さな家では、夕食の支度が始まっていた。
台所に立つエリアナは、鍋の中を木べらでゆっくりとかき混ぜていた。
玉ねぎと根菜をじっくり煮込んだスープから、優しい香りが立ちのぼる。
「これなら、目が覚めても食べられるかしら」
助けた男性は、今も寝室で眠っている。
傷は完全に治したし、熱もない。
けれど、長い間身体を蝕んでいた呪いが消えたばかりだから、しばらく休ませた方がいいだろう。
「エリアナ、あの人、いつ起きるかな?」
リュシーがスープの鍋をのぞき込みながら尋ねた。
「そうね……夜には目を覚ますと思うけれど」
「起きなかったら?」
「そのときは、明日の朝までゆっくり休んでもらいましょう」
「エリアナって、のんびりしてるよね」
「そうかしら?」
「そうだよ!」
リュシーの言葉に、エリアナは少しだけ笑った。
そのとき。
寝室の方から、小さな物音が聞こえた。
「あら。起きたのかしら」
火を弱め、木べらを置く。
エリアナは手を拭いてから、寝室へ向かった。
◇
見知らぬ天井だった。
柔らかな夕日の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。
ルシアン・アルヴェリスは、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
身体を起こそうとして、違和感に気づく。
痛くない。
いつもなら、目を覚ました瞬間から胸の奥に鈍い痛みがある。
呼吸をするたびに身体を締めつけるような、冷たい痛み。
生まれたときから二十七年間、片時も離れることのなかったものだ。
それが、ない。
「……なぜ」
ルシアンは胸元へ手を当てた。
何度確かめても、痛みは戻ってこなかった。
それどころか、いつも身体の奥に沈んでいた重苦しさまで消えている。
信じられなかった。
王国中の医師も、魔導師も、誰一人として治せなかった呪い。
それが、どうして。
「……目が覚めたんですね」
不意に声がして、ルシアンは顔を上げた。
扉のところに、一人の少女が立っていた。
淡い銀金色の髪。
春の若葉を思わせる緑色の瞳。
簡素な白いワンピースに身を包んだ少女は、彼と目が合うと、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった。なかなか起きないので、少し心配していたんです」
ルシアンは言葉を返せなかった。
少女はそんな彼の様子を不思議そうに見つめ、小さく首を傾げる。
「お身体はどうですか? 痛いところはありませんか?」
「……君が、私を?」
「はい。森で倒れていらしたので、お連れしました」
「傷は……」
「治しておきました。呪いもあったので、そちらも一緒に」
あまりに何気ない口調だった。
まるで、庭の花に水をやったとでもいうように。
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
「……呪いを、解いたのか?」
「ええ。少し複雑でしたけれど、ちゃんと取れたと思います」
「……少し、複雑?」
「はい。ずいぶん奥まで絡まっていたので、ほどくのに少し時間がかかりました」
ルシアンは絶句した。
あの呪いを、少し複雑だったと。
王立魔導院の院長ですら、解呪は不可能だと断言したものを。
少女は彼の沈黙をどう受け取ったのか、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もしかして、まだ痛みますか?」
「……いや」
「よかった」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「もうすぐ夕食ができます。お腹が空いていたら、温かいスープを召し上がってくださいね」
その笑顔には、何の打算もなかった。
自分が何をしたのか。
目の前の男が誰なのか。
何ひとつ知らないまま、ただ助かってよかったと喜んでいる。
ルシアンは深く息をついた。
こんなに楽に呼吸ができたのは、生まれて初めてだった。
「……君の名前を、聞いてもいいだろうか」
少女は少し驚いたように瞬きをした。
それから、ふわりと微笑む。
「エリアナです。エリアナ・フィオーレと申します」
「エリアナ……」
ルシアンは、その名前を静かに繰り返した。
窓の外では、白い花が夕風に揺れている。
長い間、自分の未来に希望など持ったことはなかった。
けれど今、目の前の少女は、彼にとって不可能だったはずの明日を与えてくれた。
「……ありがとう、エリアナ」
心からの言葉だった。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
それから、少し考えるように首を傾げる。
「あの……ところで、お名前を伺ってもよろしいですか?」
ルシアンは目を瞬かせた。
そして、思わず小さく笑ってしまった。
自分を知らない人間に会ったのは、いつ以来だろう。
「……ルシアンだ」
「ルシアン様ですね」
「様は必要ない」
「でも、初めてお会いした方ですし……」
困ったように眉を寄せるエリアナを見て、ルシアンはそれ以上何も言わなかった。
代わりに、もう一度その名を心の中で呼ぶ。
エリアナ。
この名を、きっと生涯忘れることはないだろう。
そんな予感がした。
一方、エリアナはというと。
(よかった。お元気そうで)
心から安堵しながら、今夜のスープには焼きたてのパンも添えようと考えていた。
こうして二人の、少し不思議な日々が始まった。




