13.古い図書館と、知らない名前
王立図書館を訪れる朝、エリアナはいつもより念入りに髪を整えた。
鏡の前で銀金色の髪を編み込み、後ろで一つにまとめる。最後に細いリボンを結んだところで、枕の上からリュシーが声をかけた。
「エリアナ、今日はおしゃれするの?」
「図書館へ行くのよ。髪が邪魔にならない方がいいでしょう?」
「ふうん」
リュシーは宙に浮かび、エリアナの周りを一周した。
「昨日も同じところを三回結び直してたよ」
「そうだったかしら」
「そうだよ。ルシアンとお出かけする前」
エリアナは鏡越しにリュシーを見た。
「昨日はリボンが曲がっていただけよ」
「今日は?」
「今日は……」
言いかけて、エリアナは口を閉じた。
今日も、少しだけ気になったのだ。
ルシアンと並んで歩くとき、あまりおかしな格好をしていたくない。
昨日、花売りの女性に夫婦だと間違えられたことを思い出す。
あのときは恥ずかしくて、ろくに顔も上げられなかった。
けれど、夜になってから考えてみると、別に嫌な気持ちになったわけではなかった。
ただ、驚いただけだ。
今まで誰かとそういう関係になることなど、考えたことがなかったから。
「……今日のリボンは、一度で結べたわ」
エリアナがそう答えると、リュシーは声を立てて笑った。
「そういうことにしておく!」
「もう、リュシーったら」
エリアナも笑いながら、最後に鏡を確かめた。
昨日、厨房で焼いた菓子は、ルシアンがとても喜んでくれた。
思い出すと、今でも少し嬉しくなる。
今日は図書館へ行く。
ずっと楽しみにしていた場所だ。
そして、そのあとには、ルシアンの好きな場所へ案内してもらう約束もある。
どちらも楽しみで、昨夜は寝る前に何度も予定を思い返していた。
◇
王立図書館は、王都の東側にある学術地区に建っていた。
広い通りに面した建物は、白い石と赤褐色の煉瓦で造られ、正面には六本の大きな柱が並んでいる。
入口へ続く階段の両脇には古い楡の木が植えられ、枝の間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
エリアナは馬車を降りると、しばらく建物を見上げた。
「……こんなに大きいんですね」
「王国で最も古い図書館の一つだからね」
ルシアンは隣に立ち、建物の上部を指さした。
「中央の丸い屋根の下が閲覧室だよ。一般書庫のほかに、研究者向けの専門書庫もある」
「専門書庫……」
エリアナは期待を隠せず、階段の先を見つめた。
「早く中を見てみたいです」
「では、行こうか」
ルシアンが笑いながら歩き始める。
入口には二人の衛兵が立っていたが、彼の姿を見るとすぐに道を開けた。
大きな扉の向こうには、静かな空間が広がっていた。
高い天井。
壁一面に並ぶ本棚。
大理石の床には幾何学模様が描かれ、天窓から差し込む光がその上に落ちている。
奥には丸い閲覧室があり、いくつもの机で人々が本を読んでいた。
紙と革、古い木材の匂い。
エリアナは深く息を吸った。
森の家にも本はたくさんある。
けれど、ここにはその何十倍、何百倍もの本があるのだろう。
「……素敵」
思わずこぼれた声に、ルシアンが微笑んだ。
「気に入った?」
「はい。もう、どこから見ればいいのかわかりません」
エリアナは少し恥ずかしそうに笑った。
「こんなにたくさんの本を見るのは初めてで……」
「ゆっくり見ればいいよ。今日は時間を取ってある」
「ありがとうございます」
そのとき、正面の受付から年配の女性が近づいてきた。
「アルヴェリス公爵閣下。お待ちしておりました」
「お世話になります、館長」
「とんでもございません。こちらが、お連れのお客様ですね」
女性はエリアナへ視線を向けた。
「王立図書館の館長、マリアンヌ・ベルシェと申します」
「初めまして。エリアナ・フィオーレです」
エリアナが頭を下げると、マリアンヌは穏やかに微笑んだ。
「薬学と魔法の書物をご希望と伺っております。専門書庫の閲覧許可もいただいておりますので、どうぞご利用ください」
「本当ですか?」
「ええ。ただし、持ち出しのできない書物もございます。そちらについては、職員がご案内いたします」
「わかりました。ありがとうございます」
エリアナは嬉しくなって、もう一度頭を下げた。
マリアンヌはその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
高位貴族の客人として訪れる者の多くは、珍しい装丁の本や有名な詩集を求める。
しかし、この少女は専門書庫へ入れると聞いただけで、目を輝かせている。
ずいぶん本が好きなのだろう。
◇
専門書庫へ案内されると、エリアナはすぐに薬学の棚へ向かった。
棚には分厚い図鑑や研究書が並び、背表紙には見慣れない文字も多かった。
一冊取り出して開いてみる。
そこには、地方ごとに異なる薬草の育て方が、細かな絵とともに記されていた。
「……まあ」
エリアナは思わずページに顔を近づけた。
フィルネの森では見かけない薬草。
砂漠に生える植物。
海辺の岩場でしか育たない花。
それぞれの性質や採取時期が丁寧にまとめられている。
「……こんな育て方があるんですね」
エリアナは感心したようにつぶやいた。
祖母から教わった方法とは違うものもあった。
けれど、どちらが正しいというわけではないのだろう。
土地や気候が変われば、植物の育ち方も変わる。
それを知るのが、たまらなく楽しかった。
「エリアナ」
隣からルシアンが声をかけた。
「気になる本は見つかった?」
「はい。こちらの本、とても面白いです」
エリアナは開いていたページを示した。
「この薬草、森でも育てられるかもしれません。寒さには弱いようですけれど、温室なら……」
そこまで話して、はっとする。
「……すみません。つい夢中になってしまいました」
「構わないよ。続けて」
ルシアンは本へ視線を落とした。
「どんな薬草なんだい?」
その問いかけが嬉しくて、エリアナはページをめくった。
「この植物は、夜間にだけ葉の裏へ露を集めるそうなんです。その露には熱を下げる効果があって……」
説明を続けるうちに、エリアナは周囲のことを忘れていった。
ルシアンは彼女の隣で、ときどき質問をしながら話を聞いていた。
専門的な内容も多かったが、彼女の説明はわかりやすい。
何より、自分の好きなことを話す彼女の表情を見ているのが楽しかった。
やがてエリアナは別の棚へ移り、魔法に関する本を探し始めた。
その間、ルシアンは近くの机で書類を開いた。
館長が静かな閲覧席を用意してくれたのだ。
「私のことは気にせず、好きなだけ読んでおいで」
そう言われ、エリアナは少し迷った。
「でも、ルシアン様がお一人になってしまいます」
「私はここで仕事を進められるから、ちょうどいい」
ルシアンは笑った。
「君が本を選んだら、あとで見せてほしいな」
「……はい」
エリアナは嬉しそうに頷き、書棚の間へ戻っていった。
◇
それから一時間ほどが過ぎた。
エリアナは魔法史の棚の前で、一冊の本を手に取った。
古い革表紙の書物だった。
金色の文字で、題名が記されている。
『古代術式の変遷と失われた魔法』
エリアナは興味を覚えてページを開いた。
最初の方には、現代の魔法体系が成立するまでの歴史が書かれている。
魔法陣の発展。
詠唱の簡略化。
魔力を安定させるための補助具の研究。
どれも興味深かった。
けれど、読み進めるうちに少し不思議なことに気づいた。
書物には、古代の魔法がいかに不安定で危険だったか、繰り返し説明されている。
術式を介さずに魔力へ触れることは、魔導師の身体に大きな負担をかけるとされていた。
「……そうなのかしら」
エリアナは小さくつぶやいた。
祖母から教わった魔法には、複雑な魔法陣も長い詠唱も必要なかった。
むしろ、周囲の魔力の流れを感じ取り、無理をさせないように整えることが大切だと教えられていた。
もちろん、扱う力が大きければ慎重になる必要はある。
けれど、本に書かれているほど危険だとは思わなかった。
ページをめくる。
最後の章には、失われたとされる魔法の名称がいくつか並んでいた。
その中に、一つだけ見覚えのある言葉があった。
『原初魔法』
エリアナの指が止まった。
祖母が、ときどき口にしていた言葉だった。
詳しい説明を聞いたことはない。
ただ、祖母は魔法の使い方を教えるとき、時折こんなふうに言っていた。
『難しく考えなくてもいいのよ。魔法は、もともと世界にあるものなんだから』
エリアナは本文を読み進めた。
そこには、原初魔法が現代の術式体系とは異なるものであること、精霊との強い結びつきを持つと考えられていることが記されていた。
けれど、具体的な使用方法については、ほとんど書かれていない。
最後の一文は、次のようなものだった。
『現存する使い手は確認されておらず、その実態は伝承の域を出ない』
エリアナはしばらくその文章を見つめた。
祖母が教えてくれた魔法に、よく似ている気がする。
けれど、原初魔法という名前が使われているからといって、同じものだとは限らない。
祖母は、魔法を人前で使いすぎてはいけないと教えてくれた。
その理由が、少しだけ気になった。
「……おばあちゃん」
小さくつぶやいたときだった。
「その本に興味があるのかね」
背後から声がした。
振り返ると、灰色の髪をした老人が立っていた。
深い青色の長衣をまとい、胸元には銀色の紋章がついている。
優しそうな顔立ちだったが、目だけは驚くほど鋭かった。
「あ、はい」
エリアナは本を閉じかけた。
「少し気になることが書かれていたので」
「ほう。どの辺りかな」
「原初魔法についてです」
老人の表情が、わずかに変わった。
「……原初魔法?」
「はい」
エリアナはページを開き、該当する箇所を示した。
「こちらです。祖母から聞いたことのある名前だったので」
老人は本へ視線を落とした。
「……祖母君から?」
「ええ。昔、魔法を教えてもらっていたんです」
「そうか」
老人は静かに頷いた。
「差し支えなければ、祖母君のお名前を聞いてもいいかな」
エリアナは少し不思議に思った。
けれど、特に隠すようなことでもない。
「エレオノーラ・フィオーレです」
その瞬間、老人の目が大きく見開かれた。
「……エレオノーラ?」
「はい」
「……フィオーレ、と申したか」
「ええ」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……そうか」
その声には、懐かしさと驚きが混じっていた。
エリアナは首を傾げた。
「あの……祖母をご存じなんですか?」
老人は彼女を見つめた。
「……昔、少しだけね」
「本当ですか?」
エリアナは思わず身を乗り出した。
祖母のことを知っている人に、王都で出会えるとは思わなかった。
「祖母は、王都にお知り合いがいると話していました」
「そうか……」
老人は静かに微笑んだ。
「君は、エレオノーラによく似ているね」
「……そうでしょうか」
「ああ。特に、その目元が」
エリアナは少し照れくさくなった。
祖母は銀色の髪に、淡い緑色の瞳をしていた。
自分とよく似ていると言われることは、昔からあった。
「……ありがとうございます」
エリアナは微笑んだ。
老人はしばらく彼女を見つめ、それから穏やかに尋ねた。
「君の名前も、聞いていいかな」
「はい。エリアナ・フィオーレです」
老人はゆっくりと頷いた。
「……エリアナ」
まるで、その名前を確かめるように繰り返す。
そして、小さく微笑んだ。
「私はオルフェン・ヴァイスという。王立魔導院で院長を務めておる」
エリアナは目を瞬かせた。
「……院長様?」
「そうだ」
「……まあ」
エリアナは慌てて頭を下げた。
「失礼いたしました。そんな偉い方だとは知らずに……」
「いやいや、構わんよ」
オルフェンは笑った。
「ここでは、ただの本好きの老人だと思ってくれればいい」
その言い方がどこか親しみやすく、エリアナも少し緊張が解けた。
「……ありがとうございます」
オルフェンは彼女の手元の本へ目を向けた。
「原初魔法について、何か知りたいことがあるのかね」
「はい。祖母が使っていた魔法と、少し似ている気がして」
「……そうか」
老人の目が、静かに細められた。
「それなら、少し話を聞かせてもらってもいいかな」
◇
オルフェンの案内で、エリアナは専門書庫の奥にある小さな閲覧室へ入った。
壁には古い地図が飾られ、窓辺には丸いテーブルが置かれている。
部屋の中には紙と木の香りが漂っていた。
「どうぞ、座っておくれ」
「ありがとうございます」
エリアナは椅子に腰を下ろした。
オルフェンも向かいに座り、静かに口を開く。
「エレオノーラとは、若い頃に何度か会ったことがある」
「そうだったんですね」
「ああ。彼女は昔から、少し変わった魔法を使う人だった」
エリアナは嬉しそうに笑った。
「祖母は、魔法がとても上手でした」
「……そうだろうね」
オルフェンは小さく頷いた。
「君も、祖母君から魔法を習ったのかい?」
「はい。小さい頃から、少しずつ」
「どんな魔法を?」
エリアナは少し考えた。
「薬草を育てる魔法や、傷を治す魔法です。それから、魔力の流れを整える方法も教わりました」
「……魔力の流れを」
「はい」
オルフェンは表情を変えなかった。
けれど、机の下で組んだ手に、わずかに力が入った。
彼女が話しているのは、現代の魔導師が使う一般的な魔法ではない。
魔力の流れそのものに干渉する術。
それは、古代の文献にしか残されていないものだった。
「……祖母君は、その魔法を何と呼んでいたかな」
エリアナは少し考えた。
「特に名前はつけていなかったと思います。ただ、原初魔法という言葉は聞いたことがあります」
「……そうか」
オルフェンは静かに頷いた。
やはり。
目の前の少女は、エレオノーラの魔法を受け継いでいる。
しかも、その価値をほとんど理解していないようだった。
「エリアナ」
「はい?」
「祖母君から、何か特別な言いつけを受けてはいないかね」
エリアナは少し驚いたように顔を上げた。
「……特別な言いつけ?」
「例えば、魔法を人前で使わないように、など」
その言葉に、エリアナは目を見開いた。
「……どうして、ご存じなんですか?」
オルフェンは少しだけ苦笑した。
「エレオノーラなら、そう教えるだろうと思っただけだよ」
エリアナはしばらく彼を見つめていた。
祖母のことを、よく知っている人なのだろうか。
「……はい。祖母には、あまり人前で魔法を使わないようにと言われていました」
「理由は聞いたかね?」
「いいえ。私がもう少し大きくなったら教えると……」
そこまで言って、エリアナは言葉を止めた。
祖母は三年前に亡くなった。
結局、その理由を聞くことはできなかった。
オルフェンは彼女の表情を見て、静かに尋ねた。
「……祖母君は、もう?」
「はい。三年前に」
エリアナは頷いた。
オルフェンは目を伏せた。
「……そうか」
短い沈黙が流れた。
老人はしばらく何かを考えていたが、やがて顔を上げた。
「エリアナ。もしよければ、君に見せたいものがある」
「見せたいもの、ですか?」
「ああ。昔、エレオノーラが研究していた魔法に関する記録だ」
エリアナの瞳が輝いた。
「祖母の研究ですか?」
「そうだ」
「……ぜひ、見てみたいです」
その返事に、オルフェンは静かに頷いた。
「ただし、その記録は少し特殊でね。今すぐここで見せることはできない」
「そうなんですね」
「準備ができたら、改めて案内しよう」
「ありがとうございます」
エリアナは嬉しそうに微笑んだ。
祖母が王都で何をしていたのか。
そのことを知れるかもしれない。
そう思うだけで、胸が弾んだ。
◇
一方、その頃。
ルシアンは専門書庫の閲覧席で、最後の書類に目を通していた。
ふと顔を上げると、エリアナの姿が見えなかった。
先ほどまで魔法史の棚の前にいたはずだが、今は誰もいない。
ルシアンは書類を閉じ、立ち上がった。
書庫の奥へ向かおうとしたところで、館長のマリアンヌが近づいてきた。
「公爵閣下」
「館長。エリアナを見かけませんでしたか?」
「はい。先ほど、オルフェン院長とお話しされていました」
ルシアンの足が止まった。
「……オルフェン院長と?」
「ええ。専門書庫の奥にある閲覧室へご案内したようです」
ルシアンは眉を寄せた。
オルフェンがエリアナに会いたがっていることは知っていた。
だが、こんなに早く接触するとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
ルシアンは礼を言い、閲覧室へ向かった。
途中、ふと嫌な予感がした。
オルフェンは、祖母エレオノーラのことを知っている。
そして、彼女の魔法に関する記録も調べているはずだ。
もし、エリアナに何か余計なことを話していたら。
ルシアンは少し足を速めた。
◇
閲覧室の扉を開けると、エリアナとオルフェンが向かい合って座っていた。
「あ、ルシアン様」
エリアナが顔を上げた。
「こちらの方、祖母のお知り合いなんですって」
嬉しそうに話す彼女を見て、ルシアンは少しだけ安心した。
少なくとも、困った様子ではない。
「……院長」
ルシアンが声をかけると、オルフェンは穏やかに微笑んだ。
「これは、公爵閣下」
「こんなところでお会いするとは思いませんでした」
「わしもだよ。偶然、彼女が魔法史の本を読んでいるところを見かけてな」
ルシアンはオルフェンを見つめた。
老人は変わらず穏やかな表情をしている。
けれど、その目には何か考え込んでいるような色があった。
「エリアナ」
「はい?」
「そろそろ昼食にしようか」
「あ……もうそんな時間ですか?」
エリアナは窓の外を見た。
陽はすでに高く昇っていた。
本を読んでいるうちに、ずいぶん時間が経っていたらしい。
「……すみません。夢中になってしまって」
「気にしなくていいよ」
ルシアンは微笑んだ。
「楽しめたなら何よりだ」
エリアナは嬉しそうに頷いた。
それから、オルフェンへ向き直る。
「今日はお話しできて嬉しかったです。また祖母のことを教えていただけますか?」
「もちろんだとも」
オルフェンは優しく答えた。
「君に聞いてほしい話も、まだたくさんある」
「ありがとうございます」
エリアナは丁寧に頭を下げた。
その様子を見ながら、ルシアンは静かに息を吐いた。
どうやら、簡単に避けられる話ではなさそうだった。
◇
図書館を出たあと、二人は近くの小さな食堂へ向かった。
貴族が訪れるような高級店ではなく、街の人々が気軽に立ち寄る落ち着いた店だった。
窓辺の席に座り、温かいスープと焼きたてのパンを注文する。
「……あの、ルシアン様」
エリアナが口を開いた。
「うん?」
「今日は、祖母のことを知っている方にお会いできて嬉しかったです」
「……そうだね」
「祖母は、昔のことをあまり話してくれなかったので」
エリアナは少し考えながら続けた。
「王都に来る前は、きっといろいろな場所へ行っていたんだと思うんです。でも、どんな暮らしをしていたのか、ほとんど知らなくて」
ルシアンは彼女の話を静かに聞いていた。
「……もっと、聞いておけばよかったなと思うことがあります」
エリアナは小さく笑った。
「今さらですけれど」
その笑顔には、少しだけ寂しさが混じっていた。
ルシアンはすぐには言葉を返さなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……エリアナ」
「はい?」
「君が知りたいと思うことは、きっと大切なことなんだろうね」
エリアナは顔を上げた。
「祖母君のことも、魔法のことも。知らないままでいた方がいいとは、私は思わない」
「……ルシアン様」
「ただ、もし調べる中で困ったことがあれば、私にも相談してほしい」
エリアナは彼を見つめた。
穏やかな青い瞳。
そこには、いつもの優しさとは少し違う、真剣な光があった。
「……ありがとうございます」
エリアナは小さく頷いた。
「そのときは、お願いしてもいいでしょうか」
「もちろん」
ルシアンは微笑んだ。
「君一人で抱える必要はないよ」
その言葉を聞いて、エリアナは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
祖母が亡くなってから、森の家では何でも自分で決めてきた。
薬の材料を集めることも、家を守ることも、困ったことを解決することも。
それが当たり前だった。
けれど、誰かに相談してもいいと言われると、不思議と安心する。
「……はい」
エリアナは柔らかく微笑んだ。
ルシアンも、その表情を見て安心したように頷いた。
◇
その日の午後。
エリアナたちが図書館を離れたあと、オルフェンは一人で専門書庫に戻っていた。
机の上には、エリアナが読んでいた古い魔法史の本が置かれている。
彼はその本を開き、原初魔法について書かれたページを眺めた。
「……エレオノーラ」
小さく名前をつぶやく。
孫娘は、思っていた以上に彼女によく似ていた。
容姿だけではない。
魔法を特別なものと思わず、ごく自然に受け入れているところも。
そして、何より。
自分の力について、ほとんど疑問を持っていないところも。
オルフェンは深く息を吐いた。
地下資料室で見つけた記録。
原初魔法継承計画。
そこには、まだ解読できていない部分が残されている。
エリアナに見せると言ったのは、そのためでもあった。
祖母から直接魔法を教わった彼女なら、何かわかるかもしれない。
ただし、急ぐわけにはいかなかった。
エレオノーラが王宮から離れた理由。
先代国王が記録を封印した理由。
それらを確かめないまま、孫娘を巻き込むことはできない。
オルフェンは本を閉じた。
そして、窓の外へ視線を向ける。
王都の街並みには、午後の陽が降り注いでいた。
穏やかな春の日。
その静けさの裏で、三十年以上前に封じられた秘密が、少しずつ動き始めていた。
オルフェンは机の引き出しを開けた。
そこには、昨夜地下資料室で見つけた一枚の紙が入っていた。
黒い表紙の本から、いつの間にか滑り落ちてきたものだ。
表には古代文字が並び、裏には短い一文が記されている。
『継承者が現れたとき、封印は再び目を覚ます』
オルフェンはその文章を見つめた。
そして、静かにつぶやいた。
「……もう、始まっておるのかもしれんな」
窓の外で、遠くの鐘が鳴った。
その音は、いつもより少しだけ長く響いていた。




