12.あなたのために焼くお菓子
朝食を終えたエリアナは、厨房へ向かう途中で足を止めた。
昨夜はあれこれ考えていたのに、いざお願いするとなると、少し緊張する。
ここは公爵邸だ。
森の家の台所とは違い、何人もの料理人が働いている。突然訪ねていって、菓子を作らせてほしいなどと言っても、困らせてしまうかもしれない。
「エリアナ様?」
背後から声をかけられ、振り返った。
洗いたての布を抱えたミーナが、不思議そうにこちらを見ている。
「あの、ミーナさん。少しお願いがあるのですが」
「はい。何でございましょう?」
「厨房をお借りすることはできますか?」
「厨房、でございますか?」
ミーナは目を瞬かせた。
「何か召し上がりたいものがございましたら、料理長にお申し付けいたしますが」
「いえ、そうではなくて。自分でお菓子を作りたいんです」
「エリアナ様が?」
「はい。ただ、お仕事の邪魔になるようでしたら、諦めます」
ミーナは少し考えたあと、柔らかく微笑んだ。
「それでしたら、料理長に確認してまいります。午前中は昼食の仕込みがございますので、少しお時間をいただくかもしれませんが」
「もちろんです。ありがとうございます」
「ところで、どのようなお菓子をお作りになるのですか?」
エリアナは少し迷った。
昨日、ルシアンへのお礼に焼こうと決めたものだ。
けれど、まだ本人には内緒にしておきたい。
「……小さな焼き菓子です」
「かしこまりました。材料についてもお伝えしておきますね」
「ありがとうございます。それと……」
「はい?」
「できれば、ルシアン様にはまだお話ししないでいただけますか?」
ミーナは一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、何か察したように微笑む。
「承知いたしました」
その笑顔が少し意味ありげに見えて、エリアナは照れくさくなった。
◇
公爵邸の厨房は、想像していた以上に広かった。
壁には大小さまざまな鍋が掛けられ、中央の調理台では料理人たちが手際よく仕事を進めている。
焼きたてのパンの香りに、香草を刻む音。奥の竈では、昼食用の肉がゆっくりと焼かれていた。
「おや、お客様とはあなたでしたか」
エリアナに声をかけたのは、大柄な中年の男性だった。
短く刈った髪に、よく日に焼けた顔。白い料理服の袖を肘までまくっている。
「料理長のガストンです」
「初めまして。エリアナ・フィオーレです。突然お願いしてしまって、すみません」
「いやいや。ミーナから聞いておりますよ。菓子を作りたいそうですね」
「はい。少しだけ場所をお借りできればと思って」
ガストンは奥の調理台を指さした。
「そこなら空いています。材料も使っていただいて構いませんよ。ただし、わからないことがあれば遠慮なく聞いてください」
「ありがとうございます!」
エリアナは嬉しくなって頭を下げた。
ガストンは気さくに笑った。
「ところで、何を作るんです?」
「花の形をした焼き菓子です。昨日、王都のお店で見かけて、とても綺麗だったので」
「なるほど。型抜きの菓子ですね」
「はい。ただ、少しだけ工夫したくて」
エリアナは持ってきた小さな袋を開いた。
中には、薄紫色の乾燥花が入っている。
「これは?」
「香月花です。森で採れたもので、甘い香りがするんです」
ガストンは一枚を指先につまみ、香りを確かめた。
「……ほう」
目を細める。
「いい香りですね。初めて見ました」
「焼き菓子に少し混ぜると、香りが残るんです」
「面白い。ぜひ作ってみてください」
エリアナは頷き、腕まくりをした。
森の家では、菓子を焼くのは週に二度ほどだった。
祖母が生きていた頃からの習慣で、リュシーが遊びに来る日には必ず何か用意していた。
今日は、ルシアンのために作る。
そう思うと、いつものお菓子作りが少しだけ特別に感じられた。
◇
小麦粉とバターを合わせ、砂糖を加える。
生地がまとまり始めたところで、細かく刻んだ香月花を混ぜ込んだ。
手のひらに伝わる柔らかな感触が心地いい。
エリアナは生地を薄く伸ばし、小さな花の形に抜いていった。
花弁は五枚。
中心を少しだけくぼませ、焼き上がったあとに蜂蜜を落とせるようにする。
「……これなら、綺麗にできそう」
隣からガストンがのぞき込んだ。
「ずいぶん慣れた手つきですね」
「祖母とよく作っていたんです」
「それはいい。料理は、何度も手を動かして覚えるのが一番ですから」
エリアナは微笑んだ。
祖母も、同じようなことを言っていた。
分量を覚えるだけではなく、生地の様子をよく見なさい、と。
季節や気温によって、粉の状態も少しずつ変わる。
だから、その日の生地を確かめながら作ることが大切なのだと教えられた。
焼き型に生地を並べ終えたところで、ガストンが言った。
「ところで、その花は何というものです?」
「香月花です。森の奥に群生している場所があって」
「……森の奥?」
「はい。フィルネの森です」
ガストンの手が止まった。
「フィルネの森ですか」
「ご存じですか?」
「名前だけは。珍しい薬草が採れると聞いたことがあります」
「そうですね。種類は多いと思います」
ガストンはもう一度、乾燥花へ目を向けた。
「香月花という名は初耳ですが、いい材料ですね」
エリアナは嬉しくなった。
「よかったら、少しお分けしましょうか?」
「いいんですか?」
「はい。まだありますから」
ガストンは少し迷ったあと、笑顔で頷いた。
「それなら、お言葉に甘えます」
エリアナは袋から花を取り分け、清潔な紙に包んだ。
料理人に喜んでもらえるのは、何だか嬉しい。
祖母と二人で作っていたものが、知らない誰かの食卓にも並ぶかもしれない。
そう考えると、胸が弾んだ。
◇
焼き菓子が仕上がったのは、昼食の少し前だった。
竈から取り出した天板には、小さな花が綺麗に並んでいる。
焼き色は淡い黄金色。
花弁の縁はわずかに色づき、香月花の甘い香りが厨房に広がっていた。
「……いい香り!」
エリアナは思わず笑った。
ガストンも満足そうに頷く。
「見事ですね。焼き加減も申し分ありません」
「ありがとうございます」
エリアナは菓子を冷まし、中心のくぼみに蜂蜜を少しずつ落としていった。
最後に、細かな砂糖をほんの少し振りかける。
白い砂糖が花弁に残り、朝露をまとったように見えた。
「……できました」
完成した菓子を眺めながら、エリアナは小さく息を吐いた。
森でいつも作っているものと、それほど変わらない。
けれど、今日は少しだけ時間をかけた。
ルシアンが喜んでくれたらいい。
その気持ちを込めて、一つひとつ丁寧に作った。
「エリアナ様」
ガストンが声をかけた。
「差し支えなければ、一つ味見をしても?」
「もちろんです!」
エリアナは小さな皿に菓子を一つ乗せ、差し出した。
ガストンはひと口かじり、ゆっくりと噛みしめた。
「……これは」
少し驚いたように目を見開く。
「香りがいいですね」
「本当ですか?」
「ええ。口に入れたときは控えめですが、あとから花の香りが広がる。甘さも強すぎません」
エリアナはほっとした。
「よかったです」
「うちの菓子職人にも教えていただきたいくらいですよ」
「そんな、大げさです」
思わず笑うと、ガストンも笑った。
「いえ、本当に。……これは旦那様も喜ばれるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、エリアナは少しだけ手を止めた。
「……あの、ガストンさん」
「はい?」
「ルシアン様は、甘いものがお好きなんでしょうか?」
ガストンは少し考えた。
「嫌いではありませんが、どちらかといえば控えめな甘さを好まれますね」
「そうなんですね」
「以前は食事そのものがあまり進まない日も多かったのですが、最近はずいぶん召し上がるようになりまして」
エリアナは静かに頷いた。
森で初めて会ったときのルシアンを思い出す。
青白い顔色。
浅い呼吸。
身体の奥深くまで絡みついていた、古い呪い。
あのときは、ただ苦しそうな人を助けたいと思った。
けれど今は、元気になった彼が食事を楽しめていることが、何より嬉しい。
「……それなら、よかったです」
エリアナは小さく微笑んだ。
ガストンはその表情を見て、何も言わずに頷いた。
◇
昼食のあと、エリアナは焼き菓子を小さな箱に詰めていた。
白い紙を敷き、花の形が崩れないように一つずつ並べる。
最後に淡い緑色のリボンを結んだところで、リュシーが飛んできた。
「エリアナ!」
「どうしたの?」
「お菓子、できた?」
「ええ。ちょうど今、包み終わったところよ」
リュシーは箱をのぞき込んだ。
「……全部、ルシアンの?」
「そうよ」
「リュシーのは?」
エリアナは笑いながら、別の小さな袋を取り出した。
「もちろん、あるわよ」
「やった!」
リュシーは袋を抱え、嬉しそうに飛び回った。
エリアナはその様子を眺めながら、箱を持ち上げた。
あとは、ルシアンに渡すだけだ。
そう思ったところで、少し緊張している自分に気づいた。
いつもなら、誰かにお菓子を渡すときに緊張することなどない。
村の人に作って持っていくこともあるし、リュシーにはしょっちゅう食べてもらっている。
それなのに今日は、どうしてだろう。
味は大丈夫だった。
形も綺麗にできた。
ガストンも美味しいと言ってくれた。
それでも、ルシアンに気に入ってもらえるかどうかが、ひどく気になった。
「……変なの」
思わずつぶやく。
「何が?」
リュシーが顔を上げた。
「ううん。何でもないわ」
エリアナは首を振った。
けれど、箱を持つ手は少しだけ慎重になっていた。
◇
ルシアンの執務室を訪ねると、扉の向こうから低い声が聞こえた。
「どうぞ」
エリアナが扉を開くと、ルシアンは机に向かっていた。
手元には何枚もの書類が広げられ、窓際の棚には本が並んでいる。
「ああ、エリアナ」
彼は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「どうしたんだい?」
「あの……お仕事中にすみません」
「構わないよ。ちょうど一段落したところだ」
ルシアンはペンを置き、立ち上がった。
「何か困ったことでも?」
「いえ、そうではなくて」
エリアナは箱を両手で持ち直した。
「昨日のお礼に、少しだけお菓子を作ったんです」
ルシアンは目を瞬かせた。
「……お菓子?」
「はい。王都でご馳走していただいたり、お花をいただいたりしたので」
エリアナは箱を差し出した。
「よかったら、召し上がってください」
ルシアンはしばらく箱を見つめていた。
それから、ゆっくりと受け取る。
「……私のために?」
「はい」
「君が作ってくれたのかい?」
「ええ。厨房をお借りして」
ルシアンはリボンに触れた。
淡い緑色の細いリボン。
丁寧に結ばれている。
「……ありがとう」
その声は、いつもより少し低かった。
エリアナは顔を上げた。
彼は箱を見つめたまま、穏やかに微笑んでいる。
「開けてもいいかな」
「もちろんです」
ルシアンはリボンをほどき、蓋を開けた。
中には、小さな花の形をした焼き菓子が並んでいる。
「……綺麗だね」
「昨日のお店で見かけたお菓子が素敵だったので、少し真似をしてみたんです」
「そうだったのか」
ルシアンは一つ手に取った。
花弁の縁が淡い黄金色に焼け、中心には蜂蜜が小さく光っている。
「食べてみても?」
「はい。ぜひ」
エリアナは思わず姿勢を正した。
ルシアンはその様子に気づき、小さく笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「……すみません」
「謝ることではないけれどね」
彼は焼き菓子をひと口かじった。
バターの香りのあとに、柔らかな花の香りが広がる。
甘さは控えめで、蜂蜜がほんのりと残った。
「……美味しい」
ルシアンは静かに言った。
エリアナは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。とても」
ルシアンはもうひと口食べた。
「花の香りがするね」
「香月花を少し混ぜてみたんです。甘すぎない方がお好きだと伺ったので」
そこまで言って、エリアナははっとした。
わざわざ好みを聞いていたことまで話してしまった。
ルシアンは彼女を見つめた。
「……私の好みを?」
「はい。ガストンさんにお聞きしました」
エリアナは少し照れながら答えた。
「せっかくなら、好きな味の方がいいと思って」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、手元の菓子へ目を落とした。
誰かが自分のために料理を作ることは、珍しくない。
公爵邸には優秀な料理人が揃っている。
毎日の食事も、体調や好みに合わせて用意されていた。
けれど、今日の菓子は少し違った。
エリアナが自分で作ろうと思い、材料を選び、時間をかけて焼いてくれたものだった。
「……嬉しいよ」
ルシアンは顔を上げた。
「ありがとう、エリアナ」
エリアナは一瞬、言葉を忘れた。
彼は本当に嬉しそうだった。
その表情を見た瞬間、朝から感じていた緊張がすっとほどけていった。
「……よかったです」
自然と笑みがこぼれる。
「気に入っていただけるか、少し心配だったので」
「心配?」
「はい。ルシアン様は、普段から美味しいものを召し上がっていらっしゃるでしょうから」
ルシアンは小さく笑った。
「確かに、料理には恵まれていると思う」
それから、穏やかに続けた。
「でも、今日の菓子は特別だよ」
「……特別?」
「ああ。君が私のために作ってくれたから」
エリアナは返事をしようとして、うまく言葉が出てこなかった。
顔が熱くなる。
どうしてだろう。
ただ感謝されただけなのに、昨日の花市で夫婦と間違えられたときと、少し似た気持ちになった。
「……それなら、作ってよかったです」
ようやくそう答えた。
ルシアンは嬉しそうに微笑んだ。
◇
「エリアナ、少し座っていかないかい?」
ルシアンは執務室の奥にある小さな応接用の席を示した。
「お時間は大丈夫なんですか?」
「ああ。次の仕事までは少し余裕がある」
「それなら、少しだけ」
エリアナは頷いた。
ルシアンが呼び鈴を鳴らすと、ほどなくしてセドリックが紅茶を運んできた。
エリアナが焼いた菓子も皿に並べられ、二人は向かい合って席についた。
「そういえば、エリアナ」
「はい?」
「明日は図書館へ案内しようと思っているんだ」
エリアナの顔が明るくなった。
「王立図書館ですか?」
「ああ。閲覧許可も取れたよ」
「本当ですか!」
思わず身を乗り出し、慌てて座り直す。
ルシアンはその様子を見て笑った。
「楽しみにしていたんだね」
「はい。とても」
「魔法や薬学の本も多いから、きっと気に入ると思う」
「……何冊くらいあるんでしょう」
「正確な数はわからないけれど、一般書庫だけでも相当な量だよ」
エリアナは目を輝かせた。
「一日では読みきれませんね」
「もちろん。何日通っても構わないよ」
「……そんなに?」
「ああ。君が望むなら」
エリアナは嬉しそうに笑った。
けれど、すぐに少し考え込んだ。
「あの、ルシアン様」
「うん?」
「私ばかり好きなところへ連れていっていただいて、申し訳なくて……」
「そんなことはないよ」
「でも、ルシアン様にも行きたい場所があるのではありませんか?」
ルシアンは少し驚いたように彼女を見た。
「私の?」
「はい。王都を案内していただくばかりではなくて、ルシアン様のお好きな場所にも行ってみたいです」
エリアナは少し恥ずかしそうに笑った。
「森では、私の好きなものばかりお見せしてしまいましたから」
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……そうだね」
少し考え、窓の外へ目を向けた。
「それなら、次は私の好きな場所を案内しよう」
「どちらですか?」
「まだ秘密にしておこうかな」
エリアナは目を瞬かせた。
それから、昨日自分が温室で同じことを言ったのを思い出した。
「……ルシアン様」
「何だい?」
「私の真似をされましたね?」
ルシアンは少しだけ目を見開いた。
そして、声を立てて笑った。
「ばれてしまったか」
「もう」
エリアナも笑った。
こんなふうに冗談を言い合えるようになるとは、森で初めて出会った頃には思いもしなかった。
けれど、今はそれがとても自然だった。
◇
お茶を飲み終え、エリアナが執務室を出ようとしたときだった。
「エリアナ」
ルシアンに呼び止められ、振り返る。
「はい?」
彼は机の上の箱を見ていた。
「この菓子、残りも私が食べていいのかな」
エリアナは思わず笑った。
「もちろんです。全部ルシアン様のために作ったものですから」
「そうか。よかった」
「お口に合ったなら、また作りますね」
ルシアンは顔を上げた。
「……本当に?」
「はい。今度は違うお菓子にも挑戦してみたいです」
エリアナは少し考え、付け加えた。
「林檎のタルトも得意なんですよ」
「それは楽しみだ」
彼の声が柔らかくなる。
エリアナはその表情を見て、胸の奥が温かくなった。
次に作るものを考えるだけで、もう少し嬉しくなっている。
そんな自分が少し不思議だった。
「それでは、失礼します」
「ああ。また夕食で」
「はい」
扉を閉め、廊下へ出る。
エリアナはしばらく歩いたところで足を止めた。
そして、胸元にそっと手を当てた。
「……よかった」
小さくつぶやく。
朝から気になっていたことが、ようやく落ち着いた。
ルシアンは本当に喜んでくれた。
それだけで、今日一日が何だか特別なものになった気がする。
エリアナは廊下の窓から庭を眺めた。
薔薇の間を春風が吹き抜け、淡い花弁が一枚、石畳へ舞い落ちた。
祖母が生きていた頃、誰かのために何かを作るのは当たり前だった。
けれど、今日は少し違った。
喜んでもらえるだろうかと何度も考え、渡す瞬間には緊張して、嬉しそうな顔を見た途端に安心した。
こんな気持ちは、初めてかもしれない。
エリアナはゆっくりと歩き始めた。
恋なのかどうかは、まだわからない。
でも、急いで答えを出す必要はないのだと思う。
今はただ、ルシアンと一緒に過ごす時間が楽しい。
それで十分だった。
◇
エリアナが部屋を出たあと、ルシアンはしばらく机の上の箱を眺めていた。
淡い緑色のリボンが、綺麗に結び直されている。
先ほど、エリアナが帰る前に結んでくれたものだった。
彼は箱の蓋を開け、残っている焼き菓子を見つめた。
花の形をした、小さな菓子。
特別に高価な材料が使われているわけではない。
けれど、今まで受け取ったどんな贈り物よりも、心に残る気がした。
そのとき、扉が叩かれた。
「閣下、失礼いたします」
ノアが入ってきた。
「明日の警備について、ご相談が……」
そこまで言いかけ、机の上の箱に目を留めた。
「……お菓子ですか?」
「ああ」
「珍しいですね。閣下が執務室でお菓子を召し上がるなんて」
ルシアンは小さく笑った。
「エリアナが作ってくれたんだ」
「……エリアナ様が?」
「ああ。昨日のお礼だそうだ」
ノアは箱の中をのぞいた。
「へえ。綺麗ですね」
「そうだろう」
ルシアンは自然に答えた。
ノアは思わず顔を上げた。
その声音に、少しだけ自慢げな響きがあったからだ。
「……閣下」
「何だい?」
「一つ、いただいても?」
ルシアンの手が止まった。
ノアは笑顔で続けた。
「エリアナ様の手作りなら、ぜひ味見してみたいです」
ルシアンは箱を見つめた。
少し考えてから、静かに答える。
「……これは、私がもらったものだから」
「……はい?」
「君には、ガストンに頼んで何か用意してもらおう」
ノアは目を丸くした。
そして、数秒後。
「……閣下」
「何だい?」
「まさか、一つも分けてくださらないんですか?」
ルシアンは平然と答えた。
「そういうことになるね」
ノアはとうとう笑い出した。
「ははっ! これは驚いた!」
「何がおかしい」
「いえ、何でもありません!」
そう言いながらも、笑いが止まらない。
ルシアンは少し不満そうに眉を寄せたが、結局何も言わなかった。
ノアはしばらく笑ったあと、少しだけ真面目な表情になった。
「……閣下」
「うん?」
「最近、本当に楽しそうですね」
ルシアンは顔を上げた。
ノアは穏やかに続けた。
「エリアナ様がいらしてから、特に」
ルシアンはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……そうかもしれないね」
窓の外では、春の陽が庭園を照らしていた。
ルシアンは箱の蓋を閉じ、引き出しの中へ大切にしまった。
明日は、エリアナと王立図書館へ行く。
そのあとには、彼女に見せたい場所がある。
静かに流れていた日々の中に、楽しみに待つ時間が少しずつ増えていた。
◇
同じ頃、王立魔導院の地下資料室では、オルフェン・ヴァイスが古い扉の前に立っていた。
重厚な扉には複雑な魔法陣が刻まれ、中央には王家の紋章が浮かんでいる。
この部屋は、三十年以上前から封印されていた。
王命によって閲覧を禁じられた記録が保管されている場所だ。
オルフェンは懐から一枚の許可証を取り出した。
古い王印が押された、特別な書類だった。
「……まさか、これを使う日が来るとはな」
彼は小さくつぶやいた。
若い頃、先代の国王から直接渡されたものだった。
『どうしても確かめなければならない日が来たら、使うがいい』
そう言われていた。
当時は、その意味がわからなかった。
けれど今、エレオノーラ・フィオーレの孫娘が王都へ来ている。
そして、その少女は失われた原初魔法を使えるらしい。
オルフェンは許可証を扉へかざした。
魔法陣が淡く光り、重い扉がゆっくりと開いていく。
中には、古い書物や記録が整然と並んでいた。
中央の机には、一冊の黒い表紙の本が置かれている。
オルフェンは近づき、表紙の文字を読んだ。
『原初魔法継承計画』
その下には、小さな文字で名前が記されていた。
『エレオノーラ・フィオーレ』
オルフェンは息をのんだ。
「……継承計画?」
慎重に表紙を開く。
最初のページには、古い文字で短い文章が綴られていた。
『原初魔法は、誰にでも継承できるものではない。
継承者には、特定の魔力特性と、精霊との強い共鳴が必要となる。
適合者が確認された場合、継承は可能と考えられる』
オルフェンは眉を寄せた。
その先には、さらに詳しい記録が残されている。
けれど、数ページめくったところで、彼の手が止まった。
そこには、ある一文が記されていた。
『継承者が誕生した場合、その存在は王宮に報告せず、厳重に秘匿すること』
オルフェンはしばらく動かなかった。
なぜ、王宮に報告してはならないのか。
王命によって封印された記録の中に、王宮から隠すよう指示された継承者の存在が書かれている。
矛盾しているように思えた。
だが、もし先代国王自身が、何かを隠そうとしていたのだとしたら。
「……陛下」
オルフェンは低くつぶやいた。
「あなたは、何を恐れておられたのですか」
地下資料室には、彼の声だけが静かに響いた。
そして、誰もいないはずの部屋の奥で。
微かな音がした。
紙を一枚、めくるような音だった。




