11. 花の都と、初めての贈り物
王都リュミエールの中央広場には、春の光が降り注いでいた。
白い石畳の上を馬車がゆっくりと進み、窓の外には色鮮やかな花々が流れていく。
エリアナは窓の向こうへ身を乗り出しかけ、慌てて座り直した。
出発前、ミーナから馬車の中では姿勢に気をつけるよう教わったばかりだった。
けれど、目の前に広がる街並みは、そんな注意を忘れてしまいそうになるほど美しかった。
「……あれが、中央広場ですか?」
「ああ。リュミエールで一番賑やかな場所だよ」
向かいに座るルシアンが答えた。
今日は公務のときとは違い、濃紺の上着に銀灰色の外套を合わせている。装飾は控えめだが、仕立てのよさは一目でわかった。
エリアナも、ミーナが用意してくれた淡い若草色のワンピースを着ていた。
襟元には小さな白い刺繍があり、袖口には細いレースがあしらわれている。
森で着ている服より少し華やかで、最初は落ち着かなかった。
けれど、鏡の前でミーナが嬉しそうに褒めてくれたので、今は少しだけ気に入っている。
「ルシアン様、あちらのお店は何を売っているんですか?」
エリアナが指さしたのは、青い屋根の小さな店だった。
店先には、透明な瓶がいくつも並んでいる。
「あれは香水店だね。花から採った香油を扱っているんだ」
「香油……」
「興味がある?」
「はい。あんなにたくさんの香りを、どうやって作り分けているのでしょう」
エリアナは窓の向こうを見つめた。
花から香りを抽出する方法なら知っている。祖母と一緒に薬草の香油を作ったこともあった。
けれど、店先の瓶には見たこともない色の香油が並び、一つひとつ違う花の絵が描かれていた。
「あとで寄ってみようか」
「いいんですか?」
「もちろん。今日は君の行きたいところへ行こう」
エリアナは嬉しくなって頷いた。
「ありがとうございます」
その様子を見て、ルシアンは窓の外へ目を向けた。
見慣れた王都の景色が、今日は少し違って見える。
普段なら気にも留めず通り過ぎる店や建物が、エリアナの目には一つひとつ新鮮に映るらしい。
そんな彼女と一緒にいると、自分まで初めてこの街を訪れたような気分になった。
◇
馬車を降りると、広場の賑わいが一気に近づいた。
噴水の水音に、石畳を行き交う人々の足音。客を呼び込む商人たちの声に混じって、どこかから軽やかな弦楽器の音色が聞こえてくる。
中央には大きな白い噴水があり、その周囲を色とりどりの花壇が囲んでいた。
噴水の頂には羽を広げた女神の像が立ち、両手から細い水の筋が流れ落ちている。
水滴が陽を受けて輝き、ときおり小さな虹を描いていた。
「……まあ」
エリアナは足を止めた。
噴水の美しさにも驚いたけれど、もっと気になるものがあった。
水の中を、小さな光が泳いでいる。
淡い水色の光は水面から跳ね上がると、楽しそうに円を描いて、再び水の中へ消えた。
「……精霊?」
思わずつぶやく。
ルシアンが隣で顔を向けた。
「どうしたんだい?」
「あの噴水に、小さな水の精霊がいます」
「精霊が?」
「はい。ほら、あちらです」
エリアナが指さす。
けれど、ルシアンには水が跳ねているようにしか見えなかった。
「……私には見えないな」
「そうなんですか?」
「ああ。精霊を見るには、相応の適性が必要だと言われている」
エリアナはもう一度、水面へ目を向けた。
森では、精霊たちはいつも気ままに飛び回っている。
祖母もリュシーの姿を見ていたし、エリアナにとってはごく身近な存在だった。
けれど、ルシアンには見えないらしい。
そういえば、祖母も昔、精霊の姿が見えない人には無理に話しかけさせてはいけないと教えてくれたことがある。
あの頃は、どうしてなのかわからなかった。
噴水のそばへ近づくと、小さな水の精霊がエリアナに気づいた。
丸い顔に、大きな青い瞳。
水滴でできたような身体を持つ、小さな精霊だった。
『……あれ?』
かすかな声が聞こえた。
『お姉ちゃん、ぼくが見えるの?』
エリアナは声を落として答えた。
「ええ。こんにちは」
『わあ!』
精霊は嬉しそうに飛び跳ねた。
小さな水しぶきが上がり、エリアナの手の甲に冷たい雫が落ちる。
『ねえ、遊んで!』
「今はお出かけの途中なの」
『ちょっとだけ!』
精霊は何度も跳ねた。
エリアナが困ったようにルシアンを見ると、彼は事情を察したようだった。
「少しくらいなら構わないよ」
「ありがとうございます。すぐ戻りますね」
エリアナは噴水へ向き直った。
「それじゃあ、少しだけね」
彼女が水面に指を近づけると、小さな精霊が手のひらへ飛び乗った。
冷たい水の感触が広がる。
精霊は楽しそうにくるりと回り、小さな水の輪を作った。
エリアナが指先で輪に触れると、水は花の形になってふわりと浮かび上がった。
『わあ、きれい!』
精霊が歓声を上げる。
花は淡い光をまとい、やがて小さな雫となって噴水へ戻った。
そのとき、近くにいた幼い女の子が声を上げた。
「お母さん、見て!」
エリアナは振り返った。
女の子は噴水を指さし、目を輝かせている。
「お水のお花が咲いた!」
母親らしき女性が不思議そうに水面を見つめた。
「まあ、本当ね。噴水の仕掛けかしら」
エリアナはそっと手を引っ込めた。
目立たないようにしたつもりだったけれど、少し夢中になってしまったらしい。
人前では気をつけると、ルシアンにも約束したばかりだった。
隣へ戻ると、彼は何も言わず、エリアナの濡れた指先に気づいて清潔なハンカチを差し出した。
「あ……ありがとうございます」
「楽しそうだったね」
「はい。でも、少し目立ってしまいました」
「子供たちは喜んでいたよ。幸い、誰も君が魔法を使ったとは思っていないようだ」
「……次は、もう少し気をつけます」
エリアナが真面目に答えると、ルシアンは優しい目をした。
「そうしてくれると安心だ」
彼はハンカチを受け取り、そっと手を差し出した。
「そろそろ行こうか。広場にはほかにも店があるよ」
「はい」
エリアナはその手を取った。
人通りの多い広場を歩き始めると、ルシアンは人波から守るように彼女を少し自分の方へ引き寄せた。
肩が触れそうな距離になる。
エリアナは一度だけ彼を見上げた。
森で傷の手当てをしたときにも、この手に触れた。
けれど、あのときとは違う。
今は怪我をしているわけでも、具合が悪いわけでもない。
ただ手をつないで歩いている。
そのことを意識した途端、指先が少し落ち着かなくなった。
「歩きにくくはない?」
ルシアンが尋ねる。
「いえ、大丈夫です」
エリアナはそう答え、少しだけ握り直した。
すると、彼も優しく握り返してくれた。
はぐれないようにしてくれているのだと思う。
けれど、それだけで片づけてしまうには、胸の辺りが妙にそわそわした。
考え込んでいるうちに、道の向こうから甘い香りが漂ってきた。
◇
広場の南側には、小さな店が並ぶ通りがあった。
軒先には色鮮やかな布が揺れ、窓辺には花や陶器が飾られている。
近くの菓子店からは焼きたてのバターの香りが漂い、エリアナは思わず足を緩めた。
「あそこは、王都でも人気の菓子店なんだ」
ルシアンが教えてくれた。
「よかったら、寄っていこうか」
「でも、さっきお茶をいただいたばかりですし……」
「少し買って帰ればいい。リュシーも喜ぶだろう」
その名前が出た途端、エリアナの肩に隠れていたリュシーが顔を出した。
「お菓子!」
ルシアンが笑った。
「聞こえていたようだね」
「リュシーはお菓子の話になると、すぐに起きるんです」
三人は店へ入った。
扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てた。
店内にはバターと蜂蜜の香りが満ち、ガラスの陳列棚には美しい菓子が並んでいる。
淡い桃色の果実を使ったタルトに、花の形に焼き上げた小さな菓子。透明な砂糖で飾られた、薄紫色の砂糖菓子もあった。
エリアナは一つひとつを眺めていた。
「こんな飾り方もあるんですね……」
「何か気になるものは?」
「この花の形のお菓子です。花弁の薄いところまで、綺麗に焼けていて」
エリアナはガラス越しに菓子を覗き込んだ。
「森に帰ったら、作ってみたいです」
「それなら、味も確かめておくといい」
ルシアンの言葉に、エリアナは頷いた。
結局、彼女は花の形をした焼き菓子を選び、リュシーは蜂蜜をたっぷり使った菓子を欲しがった。
会計のとき、エリアナが財布を取り出すと、ルシアンがそっと止めた。
「ここは私に払わせてほしい」
「でも……」
「王都へ招いたのは私だからね」
エリアナは少し迷った。
ルシアンには森での恩を返したいと言われている。
けれど、怪我を治したのは、自分がそうしたかったからだ。
こうして何かをいただくたび、かえって申し訳ない気持ちになる。
「あの……では、今度は私にも何かお礼をさせてください」
ルシアンは少し意外そうな顔をした。
「お礼?」
「はい。いただいてばかりでは落ち着かなくて」
「君はもう、十分すぎるほどのことをしてくれたよ」
「それと、これは別です」
エリアナが珍しくきっぱりと言うと、ルシアンは目を瞬かせた。
そして笑った。
「わかった。では、楽しみにしているよ」
「はい」
エリアナは安心して財布をしまった。
何を贈ろう。
ルシアンが喜んでくれるものがいい。
そう考えたとき、森の温室にある小さな花が頭に浮かんだ。
けれど、もう少しだけ考えてから決めようと思った。
◇
菓子店を出たあと、二人は花売りの並ぶ通りへ向かった。
リュミエールでは、春になると花の市が開かれる。
近隣の村や領地から多くの花が運ばれ、通りには甘い香りが満ちていた。
エリアナは店先に並ぶ鉢植えを一つずつ眺めた。
淡い青色の小花。
薄桃色の薔薇。
鈴のような形をした白い花。
育てたことのある植物も多かったが、森では見かけない種類もいくつかあった。
「お嬢さん、お花はいかが?」
花売りの女性が声をかけてきた。
「少し見せていただいてもいいですか?」
「もちろんよ。今日は珍しい花も入っているの」
女性が示した奥の棚には、淡い紫色の花が並んでいた。
花弁の中心が銀色に輝き、陽の光を受けるたびに色が変わって見える。
「あ……星霞草」
「まあ、よく知っているわね」
「祖母の本で読んだことがあります。でも、実物は初めてで」
エリアナは鉢植えの前にしゃがみ、葉の様子を確かめた。
夜になると花弁が淡く光り、月明かりの下では銀色の霧をまとったように見えるとされる花だ。
祖母の本には、昔は王宮の庭にも植えられていたと書かれていた。
「思っていたより、葉が柔らかいんですね」
「そうなのよ。根も傷みやすくて、育てるのが難しいの」
店主と育て方について話しているうちに、エリアナは時間を忘れそうになった。
ふと顔を上げると、ルシアンが少し離れたところからこちらを見ていた。
「すみません、お待たせしてしまって」
「気にしなくていいよ。楽しそうだったから」
その言葉に、エリアナは照れくさくなった。
「珍しいお花だったので、つい……」
「気に入った?」
「はい。森でも育ててみたいです」
「それなら、一鉢いただこうか」
ルシアンが店主に声をかけた。
「えっ、ルシアン様?」
「君への贈り物にしたいんだ」
「でも、先ほどお菓子も買っていただきましたし……」
「これは、私が贈りたいだけだよ」
ルシアンは穏やかに言った。
「森の庭に置いてもらえたら嬉しい」
エリアナは花とルシアンを交互に見た。
ずっと見てみたかった植物だ。育てられるなら、もちろん嬉しい。
でも、どうして彼は、自分が少し興味を持ったものをこんなに早く見つけてくれるのだろう。
森で一緒に過ごしたときから、そうだった。
エリアナが話すことを、途中で遮らずに聞いてくれる。
小さなことまで覚えていてくれる。
今も、星霞草を気に入ったことに、自分より先に気づいたようだった。
「……本当に、いただいてもいいんですか?」
「もちろん」
エリアナは鉢植えをそっと持ち上げた。
「ありがとうございます。大切に育てます」
「ああ」
ルシアンの嬉しそうな顔を見て、エリアナもつられて笑った。
花をもらったのは自分なのに、贈った彼まで喜んでいるのが、少し不思議だった。
花売りの女性は、そんな二人を眺めて言った。
「素敵な旦那様ね」
エリアナは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……旦那様?」
ルシアンも、わずかに目を見開いた。
「あら、ごめんなさい。てっきり、ご夫婦なのかと」
「い、いえ。違うんです」
エリアナは慌てて答えた。
「こちらは、その……お世話になっている方で」
言いながら、何だかおかしな説明だと思った。
命を助けた相手。
森の家に泊めた客人。
今は王都へ招いてくれた公爵様。
どれも間違いではない。
けれど、店主に説明しようとすると、どういう関係なのかうまく言葉にできなかった。
「まあ、そうだったの。ごめんなさいね」
女性は笑いながら花を包み始めた。
エリアナは頷いたものの、隣にいるルシアンの顔を見られなかった。
夫婦だと思われた。
ただ、それだけのことだ。
見知らぬ人の勘違いなのだから、気にする必要はないはずだった。
それなのに、妙に恥ずかしい。
「……エリアナ」
名前を呼ばれ、顔を上げた。
「は、はい」
「困らせてしまったね」
「いえ。ルシアン様が悪いわけではありませんから」
そう答えると、彼は少し安心したように笑った。
その表情を見て、エリアナもようやく肩の力を抜いた。
けれど、店を出たあともしばらく、先ほどの言葉が頭から離れなかった。
夫婦。
今まで、自分と誰かをそんなふうに結びつけて考えたことはなかった。
祖母が生きていた頃は、森で薬を作り、本を読んでいれば毎日が楽しかった。
一人になってからも、それは変わらない。
誰かと結婚して、一緒に暮らす。
そんな未来を、具体的に想像したことさえなかったのだ。
それなのに今日は、ルシアンの隣に立つ自分を、ほんの少しだけ意識してしまった。
◇
花の市を離れる頃には、午後の陽が傾き始めていた。
ルシアンは星霞草の鉢を従者に預け、エリアナとともに水路沿いの道を歩いた。
この辺りは中央広場より人通りが少なく、静かな雰囲気だった。
石造りの建物の間を細い水路が流れ、ところどころに小さな橋が架かっている。
水面には街並みが映り込み、風が吹くたびにゆっくりと揺れた。
エリアナは橋の上で足を止めた。
「……綺麗ですね」
「ああ。私も、この辺りは好きなんだ」
ルシアンは隣に立った。
遠くで鐘が鳴り、通りの店が少しずつ夕方の支度を始めていた。
エリアナは橋の欄干に手を添え、流れる水を眺めた。
川面には細かな光が散り、遠くの建物の窓が橙色に染まっている。
「今日は、楽しかったかい?」
「はい。とても」
「それならよかった」
「お店も、お花も、初めて見るものばかりで……。でも、一番驚いたのは、王都にも精霊が暮らしていることかもしれません」
「森とは違った?」
「少しだけ。森の精霊たちは、もっと自由気ままなんです。あの噴水の子は、ずっと同じ場所にいるみたいで」
エリアナは水面を見つめた。
「どこへ行っても、それぞれの暮らしがあるんですね」
ルシアンは彼女の話を興味深そうに聞いていた。
「君と歩いていると、私の知らない王都が見えてくるよ」
「そうでしょうか」
「ああ。今日だって、あの噴水に精霊がいるなんて初めて知った」
エリアナは小さく笑った。
「私も、ルシアン様がいなかったら、こんなにいろいろな場所へ来られませんでした」
言ってから、ふと思う。
もし一人で王都に来ていたら、どうしていただろう。
きっと地図を片手に、図書館や薬草店を探していたはずだ。
それも楽しかったと思う。
けれど、今日のように小さな店を覗いたり、気に入った景色を誰かに伝えたりすることは、なかったかもしれない。
「……あの、ルシアン様」
「うん?」
「今日、何度も同じことを言ってしまっていますけれど」
「何を?」
「ありがとうございます、って」
ルシアンが笑った。
「確かに、何度か聞いたね」
「でも、本当に嬉しかったので」
エリアナは少し考えてから続けた。
「綺麗なものを見ると、祖母が生きていた頃は、すぐに教えたくなったんです。今日も、そんな気持ちになりました」
ルシアンは何も言わず、彼女を見つめていた。
「ルシアン様と一緒だと、見つけたものをすぐにお話しできて……それが、とても楽しかったです」
口にしてみると、自分でも納得できた。
王都の景色は美しかった。
けれど、ルシアンが隣にいたからこそ、こんなにも鮮やかな思い出になったのだと思う。
「……そう言ってもらえると嬉しいよ」
ルシアンは静かに答えた。
「私も、君と歩けて楽しかった」
エリアナは顔を上げた。
彼はいつもと同じように微笑んでいたけれど、その言葉が今日は少し違って聞こえた。
「また、一緒に出かけよう」
「……はい」
返事をすると、ルシアンが手を差し出した。
「そろそろ帰ろうか」
エリアナはその手を見た。
広場では、人にぶつからないようにつないでくれた。
けれど、今は道も空いている。
それでも、ルシアンは手を差し出している。
少しためらったあと、エリアナは自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、昼間よりもはっきりと、その温かさを感じた。
「寒くはない?」
「大丈夫です」
「なら、よかった」
歩き始めると、彼の歩幅が自分に合わせて少し小さくなった。
エリアナはそのことに気づいて、そっと顔を上げた。
ルシアンは前を向いている。
何か特別なことをしているつもりはないのだろう。
けれど、そんなさりげない気遣いが、今日はいつも以上に嬉しかった。
エリアナはつないだ手を見つめたあと、もう一度前を向いた。
胸の辺りが少しくすぐったい。
でも、手を離したいとは思わなかった。
◇
公爵邸へ戻ったあと、エリアナは客室の窓辺に星霞草の鉢を置いた。
リュシーは鉢の周りを飛び回りながら、楽しそうに笑っていた。
「エリアナ、この花、夜になったら光るんでしょ?」
「ええ。そう書いてあったわ」
「楽しみ!」
そのとき、花弁の中心に小さな光が灯った。
淡い銀色の光が少しずつ広がり、花全体を柔らかく包み込んでいく。
「……本当に光るのね」
エリアナは窓辺にしゃがんだ。
星霞草は、夜になると淡く光る花。
祖母の本で何度も読んだとおりだった。
それでも、実物を目にするのは初めてだ。
銀色の光を眺めているうちに、昼間の花市の光景が蘇ってきた。
この花を見つけたとき、ルシアンはすぐに気に入ったかと聞いてくれた。
そして、贈りたいと言ってくれた。
エリアナは鉢の縁にそっと触れた。
「……大切に育てなくちゃ」
「ねえ、エリアナ」
リュシーが隣へ飛んできた。
「ルシアンのこと、好き?」
エリアナは顔を上げた。
「もちろんよ。とても親切な方だもの」
「また、それ!」
リュシーは頬を膨らませた。
「そういう意味じゃないってば」
「……そういう意味?」
「一緒にいたら、もっと一緒にいたくなるとか!」
エリアナは返事をしかけて、口を閉じた。
今日、街を歩いているとき。
ルシアンが次の店へ案内してくれるたび、楽しい時間がもう少し続けばいいと思った。
橋の上で手を差し出されたときも、嬉しかった。
けれど、それが恋なのかと尋ねられると、よくわからない。
「……一緒にいると、楽しいわ」
少し考えてから答えた。
「それから、気がつくと、ルシアン様に話したいことを探している気がするの」
リュシーが目を丸くした。
「それって……」
「でも、恋かどうかはわからないわ」
エリアナは窓の外へ視線を向けた。
「誰かを好きになるって、きっともっと特別なことだと思っていたから」
祖母が読んでくれた物語には、恋をした途端、相手のことしか考えられなくなる人もいた。
会えないだけで涙を流したり、胸が苦しくて眠れなくなったり。
けれど、自分はそうではない。
王都の景色も楽しかったし、新しく手に入れた植物のことも考えていた。
ルシアンのことばかり考えていたわけではない。
それでも、今日の出来事を思い出すと、不思議と彼の顔が浮かんでくる。
「……よくわからないわね」
エリアナは小さく笑った。
リュシーはしばらく彼女を見つめていたが、やがて肩に座った。
「難しいこと、考えなくてもいいんじゃない?」
「そうかしら」
「うん。エリアナが楽しいなら、それでいいと思う」
エリアナは少し驚いたあと、頷いた。
「……そうね」
窓の外では、王都の街並みに魔法の灯りがともり始めていた。
遠くの塔が淡い光をまとい、水路沿いの街灯が一つ、また一つと輝いていく。
昼間とは違う、静かな美しさだった。
エリアナは星霞草を見つめた。
明日、ルシアンにも夜の花を見せたい。
そう思ったところで、ふと気づく。
明日も会えるのに、もう次に話すことを考えている。
少しおかしくなって、エリアナは一人で笑った。
「……リュシー」
「なあに?」
「明日、ルシアン様にこのお花を見せてもいいかしら」
「いいんじゃない?」
「そうよね」
エリアナは嬉しくなって、もう一度花を眺めた。
それから、今日買ってもらった菓子の包みを手に取る。
ルシアンに何かお礼がしたい。
できれば、買ったものではなく、自分の手で作ったものがいい。
何なら喜んでくれるだろう。
そう考えているうちに、森で一緒に食べたスープのことを思い出した。
あのとき、ルシアンはとても美味しそうに食べてくれた。
それなら、今度はお菓子を作ってみようか。
王都で見つけた花の焼き菓子を、少しだけ工夫して。
「……明日、ミーナさんに厨房をお借りできるか聞いてみましょう」
エリアナはそう決めた。
星霞草の銀色の光が、窓辺を優しく照らしている。
その夜、エリアナはいつもより少しだけ遅くまで起きていた。
理由はわかっている。
明日のお菓子に、何を使おうか考えていたからだ。
そして、焼き上がったお菓子を渡したとき、ルシアンがどんな顔をするのか。
そんなことを想像するのが、思いのほか楽しかったからだった。




