10. 公爵邸の小さな秘密
王都で迎える初めての朝は、鐘の音から始まった。
遠くで鳴り響く澄んだ音に、エリアナはゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井。柔らかな寝具に、淡い花の香りがする広い部屋。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
「……そうだったわ」
昨日、王都に到着したのだ。
エリアナは寝台から起き上がり、窓辺へ歩み寄った。
カーテンを開くと、朝日を浴びた庭園が広がっていた。白い薔薇の間を小鳥が飛び交い、噴水の水面がきらきらと輝いている。
森の朝とは、ずいぶん違う。
フィルネの森では、鳥の声と木々を揺らす風の音しか聞こえない。けれど王都では、遠くから馬車の音や人々の話し声が聞こえてくる。
それでも、この部屋は不思議と静かだった。
「……綺麗ね」
エリアナは窓を少し開けた。
涼しい風が頬をなで、庭の薔薇の香りを運んでくる。
「エリアナぁ……」
背後から眠そうな声がした。
振り返ると、枕元でリュシーが小さな毛布にくるまっていた。
「おはよう、リュシー」
「……おはよ。もう朝?」
「ええ。今日はいいお天気よ」
「ふうん……」
リュシーは毛布の中へ顔を埋めた。
エリアナはその様子を見て、そっと笑う。
「もう少し寝ていてもいいわよ」
「……そうする」
小さな返事のあと、再び寝息が聞こえ始めた。
エリアナは邪魔をしないよう、静かに身支度を整えた。
今日はルシアンが王都を案内してくれることになっている。
ただ、午前中は少し仕事があると聞いていたので、それまでは屋敷の中を見せてもらう予定だった。
昨日案内された温室にも、もう一度行ってみたい。
そう考えていると、控えめに扉が叩かれた。
「エリアナ様、お目覚めでしょうか」
「はい」
返事をすると、扉の向こうから女性の声がした。
「おはようございます。本日のお世話を担当いたします、ミーナと申します」
エリアナが扉を開くと、栗色の髪をきちんとまとめた若い女性が立っていた。
年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
淡い灰色の使用人服を着た彼女は、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、ミーナさん」
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「はい。とてもよく眠れました」
「それは何よりでございます」
ミーナは柔らかく微笑んだ。
「朝食のご用意ができておりますが、お部屋で召し上がりますか? それとも食堂へご案内いたしましょうか」
「食堂でお願いします」
「かしこまりました」
エリアナは少しためらってから尋ねた。
「あの、ルシアン様は……」
「旦那様でしたら、すでにお仕事を始めていらっしゃいます」
「そうなんですね」
「ですが、朝食はご一緒されると伺っております」
その言葉に、エリアナの顔が明るくなった。
「それなら、急いで準備しますね」
ミーナは微笑んだ。
「どうぞ、ごゆっくりなさってください」
◇
食堂へ入ると、ルシアンが窓際の席に座っていた。
朝の光が差し込む広い部屋には、長い食卓が置かれている。
けれど、食事が用意されていたのは、その端にある二人分の席だけだった。
「おはよう、エリアナ」
ルシアンが顔を上げた。
「おはようございます、ルシアン様」
「よく眠れたかい?」
「はい。お部屋がとても素敵で、つい寝過ごしてしまいました」
「まだ早い時間だよ」
ルシアンは笑った。
「もっとゆっくりしていてもよかったのに」
「でも、今日は王都を案内してくださるのでしょう?」
「ああ。午後からね」
「楽しみで、早く目が覚めてしまいました」
エリアナは少し照れくさそうに笑った。
その言葉に、ルシアンの表情が和らぐ。
「それなら、私も仕事を早く終わらせないといけないね」
「いえ、お仕事を優先してください。私はお庭を見せていただけるだけでも嬉しいので」
「ありがとう。でも、今日は君と出かけるつもりで予定を空けてあるんだ」
エリアナは目を瞬かせた。
「……私のために?」
「ああ」
ルシアンは当然のように答えた。
「せっかく王都まで来てくれたのだから、私が案内したい」
エリアナは少し頬を染めた。
「ありがとうございます」
そう言って席へ着く。
食卓には焼きたてのパンと卵料理、果物、それに温かいスープが並んでいた。
どれも丁寧に作られていて、見ているだけでお腹が空いてくる。
「……美味しそう」
「遠慮せず食べておくれ」
「はい。いただきます」
エリアナはスープをひと口飲んだ。
野菜の甘みが広がり、思わず笑みがこぼれる。
「とても美味しいです」
「それはよかった」
ルシアンは満足そうに頷いた。
彼女の食事の好みは、まだほとんど知らない。
それでも、森で一緒に食べた素朴な料理を思い出し、今朝は香草を使った優しい味のものを用意してもらった。
どうやら、気に入ってもらえたらしい。
「エリアナ」
「はい?」
「昨日は温室を見ただけだったから、今日は庭もゆっくり見ていくといい」
「よろしいんですか?」
「もちろん。庭師にも話してあるよ」
「ありがとうございます」
エリアナは嬉しそうに微笑んだ。
「実は昨日、少し気になるお花を見つけたんです」
「気になる花?」
「はい。温室の奥に置かれていた、白いお花なんですけれど」
ルシアンは少し考えた。
「白い花なら、いくつもあったと思うけれど」
「花弁の先が、少しだけ青くなっているものです」
「……ああ」
ルシアンは思い出したように頷いた。
「母が昔から育てていた花だね」
「そうだったんですね」
「名前は……何だったかな」
「月白蘭、だと思います」
エリアナは少し考えてから続けた。
「祖母の本に載っていたんです。でも、実物は初めて見ました」
「珍しい花なのかい?」
「ええ。とても繊細で、育てるのが難しいそうです」
ルシアンは静かに彼女を見つめた。
あの花は、母が生前ひどく大切にしていたものだった。
亡くなってからも庭師が世話を続けていたが、ここ数年は花を咲かせなくなっていた。
「……実は、あの花は長いこと咲いていないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。母が亡くなってから、一度も」
エリアナは少し驚いたように目を見開いた。
「……それは、寂しいですね」
その言い方が、ルシアンには少し意外だった。
花が咲かないことを残念がるのではなく、寂しいと言ったのだ。
「……そうだね」
ルシアンは小さく頷いた。
「母が好きだった花だから、もう一度咲いてくれたら嬉しいんだけれど」
エリアナはしばらく考えていた。
そして、控えめに尋ねた。
「……あとで、少し見せていただいてもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
エリアナはほっとしたように微笑んだ。
ルシアンはその笑顔を見ながら、何となく予感していた。
彼女があの花に触れれば、きっと何かが起こる。
そして、それは自分が想像しているよりも、ずっと簡単に。
◇
朝食を終えたあと、エリアナはミーナに案内されて庭園へ向かった。
公爵邸の庭には、朝から数人の庭師が働いていた。
花壇の手入れをする者、薔薇の枝を整える者、水路の掃除をする者。
それぞれが慣れた手つきで作業を進めている。
エリアナはその様子を興味深そうに眺めていた。
「……皆さん、とてもお上手なんですね」
「ありがとうございます」
ミーナが微笑んだ。
「当家の庭師たちは、皆長く勤めておりますので」
「そうなんですね」
エリアナは小さく頷いた。
庭の植物はどれもよく手入れされている。
葉の色も美しく、土の状態もいい。
ただ、奥の温室に近づくにつれて、少しだけ違う気配を感じた。
魔力の流れが、わずかに弱くなっている。
「……あら?」
エリアナは足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
少し考えてから、彼女は尋ねた。
「ミーナさん。こちらの温室は、最近まで使われていなかったんですよね?」
「はい。奥様がお亡くなりになってからは、最低限のお手入れだけでございました」
「そうですか……」
エリアナは温室を見つめた。
建物そのものは綺麗に整えられている。
けれど、その奥にある小さな一角だけ、魔力がうまく巡っていないようだった。
「……少し、見てみてもいいでしょうか」
「もちろんでございます」
ミーナは扉を開けた。
中へ入ると、昨日と同じ柔らかな花の香りが漂ってきた。
エリアナは奥の棚へ向かった。
そこには、白い花をつけるはずの月白蘭が置かれていた。
葉は細く、淡い緑色をしている。
けれど、つぼみは一つもなかった。
「……やっぱり」
エリアナは小さくつぶやいた。
そっと鉢に手を添える。
土の奥に流れる魔力が、途中で途切れていた。
植物そのものが弱っているわけではない。
ただ、花を咲かせるために必要な魔力が、うまく届いていないのだ。
「……少しだけ、整えてあげましょうね」
エリアナは周囲を見渡した。
ミーナは温室の入口で待っている。
庭師たちも、外で作業をしていた。
今なら、目立たずに済みそうだった。
エリアナは指先を鉢の縁に添え、静かに魔力を流した。
淡い金色の光が、土の中へ吸い込まれていく。
途切れていた魔力の流れが少しずつつながり、細い根の先まで行き渡った。
すると、葉がゆっくりと持ち上がった。
茎の先に、小さなつぼみが一つ生まれる。
「……よかった」
エリアナはほっと息をついた。
つぼみはまだ固く、すぐに咲く様子はない。
けれど、これなら数日もすれば美しい花を見せてくれるだろう。
エリアナは満足そうに頷き、そっと鉢から手を離した。
そのときだった。
「……エリアナ様?」
背後から声がした。
振り返ると、ミーナが驚いたような顔で立っていた。
「……あの、お花が」
「はい?」
「今……つぼみが……」
エリアナは鉢を見た。
小さな白いつぼみが、確かに茎の先についている。
「ああ、これですか?」
「……はい」
「少し元気がなかったみたいなので、整えてあげたんです」
エリアナは微笑んだ。
「これで、また咲いてくれると思います」
ミーナはしばらく言葉を失っていた。
月白蘭。
先代公爵夫人が大切に育てていた花。
十年以上、誰も花を咲かせることができなかったものだ。
庭師たちは何度も土を替え、温度を調整し、専門の魔導師まで呼んだことがある。
それでも、つぼみすらつけなかった。
その花が、今。
目の前で、小さなつぼみをつけている。
「……エリアナ様」
「はい?」
「今のは……魔法でございますか?」
エリアナは少し考えてから頷いた。
「はい。でも、ほんの少しだけです」
ミーナは言葉を失った。
エリアナは申し訳なさそうに続けた。
「勝手に触ってしまって、すみません。ルシアン様のお母様が大切にされていたお花だと伺ったので……」
「い、いえ!」
ミーナは慌てて首を振った。
「そんな……謝っていただくようなことではございません」
「……そうですか?」
「はい。むしろ……」
ミーナは再び鉢へ目を向けた。
小さなつぼみが、朝日を受けて静かに揺れている。
「……旦那様が、どれほどお喜びになることか」
その言葉を聞いて、エリアナは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、よかったです」
◇
同じ頃、ルシアンは執務室で書類に目を通していた。
机の上には領地から届いた報告書が積まれている。
昨日までに片づける予定だった仕事が少し残っていたが、午後には終わる見込みだった。
そのとき、扉が叩かれた。
「閣下、失礼いたします」
入ってきたのはセドリックだった。
「どうした?」
「温室の件で、少々ご報告がございます」
ルシアンは顔を上げた。
「温室?」
「はい。エリアナ様が、奥様の月白蘭をご覧になったそうで」
「ああ。今朝、話していたよ」
「その……」
セドリックは珍しく言葉を選んでいた。
「つぼみが、ついたそうでございます」
ルシアンの手が止まった。
「……つぼみ?」
「はい」
「月白蘭に?」
「左様でございます」
ルシアンはしばらく黙っていた。
あの花は、母が亡くなってから一度も咲いていない。
それどころか、ここ数年は葉を保つだけでも難しかった。
「……エリアナが?」
「どうやら、そのようでございます」
セドリックは静かに頷いた。
「ミーナの話では、少し魔法を使われたそうです」
ルシアンは目を閉じた。
やはり、という気持ちがあった。
彼女なら、きっと何かしてくれるだろうと思っていた。
けれど、実際にそうなったと聞くと、胸の奥が温かくなる。
「……そうか」
ルシアンは小さく微笑んだ。
「母も、喜ぶだろうね」
セドリックは一瞬、目を伏せた。
「……はい」
長年公爵家に仕えてきた彼にとっても、月白蘭は特別な花だった。
先代公爵夫人が、毎朝温室で世話をしていた姿を覚えている。
病が重くなってからも、あの花だけは自分で見に行きたいと言っていた。
「……閣下」
「何だい?」
「エリアナ様には、私からもお礼を申し上げたいと思います」
ルシアンは頷いた。
「ああ。そうしてくれると嬉しい」
セドリックは深く頭を下げた。
そして、部屋を出ようとしたところで、ルシアンが声をかけた。
「セドリック」
「はい」
「午後の予定は、変更なく進められそうかい?」
「はい。残りの書類をご確認いただければ、問題ございません」
「ありがとう」
ルシアンは机の上へ視線を戻した。
エリアナを王都へ案内する約束がある。
できるだけ早く仕事を終わらせたい。
そう思うと、自然と手が動いた。
◇
昼過ぎ。
エリアナは温室の中央にあるテーブルで、リュシーとお茶を飲んでいた。
ミーナが用意してくれた焼き菓子は、どれも美味しく、リュシーはすっかりご機嫌だった。
「エリアナ、これも美味しい!」
「そうね。蜂蜜の香りがするわ」
「もう一つ食べていい?」
「……さっきから、いくつ食べているの?」
「えっと……」
リュシーは指を折り始めた。
けれど、途中で数えるのをやめてしまった。
「……いっぱい!」
エリアナは思わず笑った。
「もう。夕食が食べられなくなっても知らないわよ」
「大丈夫だもん!」
リュシーは胸を張った。
その様子を見て、エリアナは小さくため息をついた。
まったく、食いしん坊なのだから。
けれど、こんなふうに賑やかに過ごせる時間は楽しかった。
森の家とは違う場所なのに、温室にいると不思議と落ち着く。
花の香り。
柔らかな日差し。
そして、静かに流れる時間。
祖母と過ごした日々を思い出す。
「……エリアナ」
不意に声がした。
顔を上げると、温室の入口にルシアンが立っていた。
「ルシアン様」
エリアナは嬉しそうに立ち上がった。
「お仕事は終わられたんですか?」
「ああ。少し早く片づいたよ」
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
ルシアンは微笑み、温室の中へ入ってきた。
そして、奥の棚へ視線を向ける。
「……聞いたよ」
「何をですか?」
「月白蘭のこと」
エリアナは少し驚いたように瞬きをした。
「ああ……」
「つぼみがついたそうだね」
「はい。少し元気がなかったので、整えてみたんです」
ルシアンは鉢の前に立った。
そこには、小さな白いつぼみが一つついていた。
まだ固く閉じている。
けれど、確かに生きている。
「……本当に」
ルシアンは静かに息を吐いた。
幼い頃、母がこの花を育てていた姿を思い出す。
朝になると温室へ行き、花の様子を確かめていた。
つぼみがついた日には、嬉しそうに自分を呼びに来た。
まだ小さかったルシアンは、母に手を引かれ、この場所へ来たものだった。
「……ありがとう、エリアナ」
彼は静かに言った。
エリアナは少し驚いたように顔を上げた。
「いえ、そんな……」
「母が大切にしていた花なんだ」
ルシアンはつぼみを見つめたまま続けた。
「もう一度咲くところを見られるとは、思っていなかった」
その声には、いつもとは違う響きがあった。
エリアナは少しだけ胸が締めつけられるような気がした。
大切な人を失った寂しさは、彼女にもわかる。
祖母が亡くなったあと、しばらくは庭の花を見るたびに涙が出そうになった。
それでも、季節が巡るたびに花は咲いた。
祖母が大切にしていたものが、今も生きている。
そう思うことで、少しずつ前を向けるようになったのだ。
「……きっと」
エリアナは小さく口を開いた。
「きっと、お母様も喜んでいらっしゃると思います」
ルシアンは彼女を見た。
「……そうだろうか」
「はい」
エリアナは微笑んだ。
「こんなに大切にされていたお花ですもの」
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう」
その言葉には、心からの感謝が込められていた。
エリアナは少し照れながら頷いた。
そして、ふと思い出したように言った。
「あの、ルシアン様」
「何だい?」
「こちらのお花、咲くまで少し時間がかかると思うんです」
「ああ」
「でも、今度はきっと綺麗に咲いてくれると思います」
エリアナはつぼみを見つめた。
「咲いたら、ぜひ教えてくださいね」
ルシアンは一瞬、言葉を止めた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……君にも、見てほしいな」
「私も、ですか?」
「ああ。せっかく君が助けてくれた花だから」
エリアナは嬉しそうに頷いた。
「はい。ぜひ」
ルシアンはその笑顔を見つめながら、ふと思った。
もし、この花が咲く頃にも、彼女がここにいてくれたなら。
そんなことを考えてしまう自分に、少し驚いた。
まだ、王都へ来たばかりだというのに。
それでも、その願いを否定したいとは思わなかった。
◇
「さて、エリアナ」
ルシアンは話題を変えるように言った。
「そろそろ、出かけようか」
「……王都へ?」
「ああ。まずは中央広場へ行こうと思う。それから、君が楽しみにしていた書店にも案内したい」
エリアナの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
エリアナは嬉しそうに微笑んだ。
ルシアンはその笑顔を見て、自然と口元を緩めた。
「準備ができたら、玄関で待っているよ」
「はい。すぐに行きます」
そう言って、エリアナはリュシーへ声をかけた。
「リュシー、お出かけするわよ」
「えっ! お菓子のお店も行く?」
ルシアンが笑った。
「もちろん。美味しい菓子店も知っているよ」
「やった!」
リュシーは嬉しそうに飛び上がった。
エリアナも笑いながら、温室を出る準備を始めた。
初めての王都。
まだ見たことのない景色。
そして、ルシアンと一緒に過ごす時間。
どれも、楽しみだった。
そのとき、ルシアンはふと温室の奥へ目を向けた。
月白蘭のつぼみが、柔らかな光を受けていた。
母が大切にしていた花。
もう一度咲くことはないと思っていたもの。
それが今、静かに息を吹き返している。
ルシアンは小さく微笑んだ。
エリアナがこの屋敷へ来てから、まだ一日も経っていない。
けれど、すでに何かが変わり始めていた。
それは決して大きな変化ではない。
ただ、長い間止まっていた時間が、少しずつ動き出したような気がした。
彼は最後にもう一度つぼみへ視線を向け、それからエリアナの後を追って温室を出た。
◇
その日の午後、王立魔導院では、一冊の古い記録が見つかっていた。
資料室の奥にある、普段ほとんど使われない保管棚。
そこに収められていたのは、王宮から封印指定を受けた三十年以上前の報告書だった。
オルフェンは慎重に封を解き、黄ばんだ紙を広げた。
最初のページには、見覚えのある名前が記されていた。
『エレオノーラ・フィオーレ』
その下には、当時の王立魔導院が行った調査の概要が書かれている。
オルフェンはゆっくりと読み進めた。
そして、ある一文で手を止めた。
『対象者が使用する魔法は、既存の術式体系に属さない可能性が高い』
さらに、その下には短い記述があった。
『対象者の魔力には、通常の魔導師とは異なる性質が確認される。精霊との共鳴反応についても、従来の理論では説明が困難である』
オルフェンは眉を寄せた。
エレオノーラが優れた魔導師だったことは知っている。
だが、ここまで特殊な能力を持っていたとは聞いていなかった。
次のページをめくる。
そこには、さらに不可解な記録が残されていた。
『対象者は、自身の魔法を他者へ継承する可能性について言及した。ただし、その方法および条件については回答を拒否』
オルフェンは息を止めた。
「……継承?」
古代魔法は、単純に教えれば使えるようになるものではない。
魔力の性質や適性、そして生まれ持った資質が大きく関わる。
それなのに、エレオノーラは魔法を継承できると話していたのか。
オルフェンはさらに読み進めた。
しかし、その先の数ページは、何者かによって取り除かれていた。
紙の綴じ目には、不自然な切れ目が残っている。
「……誰が、こんなことを」
オルフェンは低くつぶやいた。
最後のページには、短い文章が一つだけ残されていた。
『本件について、これ以上の調査を禁ずる。対象者への接触は、王命により禁止する』
署名は、当時の国王のものだった。
オルフェンはしばらくその文字を見つめていた。
そして、ゆっくりと資料を閉じる。
「……エレオノーラ」
懐かしい名前を口にする。
「お前さんは、いったい何を隠していたんだ」
窓の外では、王都の街並みが午後の日差しに照らされていた。
そのどこかで、エレオノーラの孫娘が過ごしている。
彼女が祖母の秘密をどこまで知っているのかは、まだわからない。
けれど、もし彼女が同じ魔法を受け継いでいるのなら。
王宮が再び動き出す可能性もある。
オルフェンは静かに立ち上がった。
少なくとも、先に確かめておきたいことがあった。
かつてエレオノーラが王都を去るとき、自分に残した言葉。
『あの子が普通に生きられるなら、それでいいの』
当時は、その意味がわからなかった。
だが今になって、ようやく一つの可能性が浮かんできた。
「……あの子、か」
オルフェンは窓の外へ視線を向けた。
エリアナ・フィオーレ。
十九歳の少女。
もし、あの言葉が彼女のことを指していたのだとしたら。
エレオノーラは、孫娘が生まれるずっと前から、その存在を知っていたことになる。
オルフェンの表情が険しくなった。
調べるべきことは、思っていた以上に多そうだった。




