ep97.さよなら、春。
瓦礫が宙に浮く。
能力結晶が唸る。
強欲の少年は、笑っていた。
「ちょうだい」
その一言で。
空気が抜けた。
葵の手から、水が消える。
「……え?」
魔力が、出ない。
天音の剣が、光を失う。
ソードマスターが、切れた。
「なに……?」
白パレットのページが、めくれない。
春の黒が、霧散する。
黒化が、解ける。
ただの、人間。
強欲は首を傾げる。
「欲しいって思ったら、もらえるよ」
能力の一時停止。
解除。
奪うわけじゃない。
“使わせない”。
それだけで、十分だった。
結晶の雨が落ちる。
葵が動けない。
天音が反応できない。
春は、考えるより先に動いた。
天音を、抱き寄せる。
背中で、受ける。
瓦礫が叩きつけられる。
骨が軋む。
血が、飛ぶ。
「春!」
天音が叫ぶ。
葵の目が、揺れる。
その瞬間。
零が、内側で静かに呟いた。
――ああ。
やっぱり。
結晶が、もう一度落ちる。
今度は、葵の頭上。
春は振り向く。
でも。
間に合わない。
銃声。
乾いた音が、裏世界に響く。
強欲の結晶が、弾かれる。
「悪いな、ガキ」
鷹見が、瓦礫の上に立っていた。
煙を上げる銃。
「三人とも下がれ」
強欲が、目を細める。
「へぇ」
「増えた」
でも、少年は笑うだけだった。
「今日はここまで」
指を鳴らす。
能力が、戻る。
水が溢れる。
白が光る。
黒が、戻る。
強欲は、ふわりと後退する。
「宝物は、また今度」
消える。
静寂。
瓦礫の中。
春は、まだ天音を抱いている。
無意識に。
葵は、それを見ていた。
零も、見ていた。
守った。
迷いなく。
選んだ。
零の声は、冷たかった。
――この人は、私たちを選ばない。
葵の胸が、締め付けられる。
違う。
分かってる。
分かってた。
でも。
証明された。
どうしたら。
天音から春を奪える?
零が、静かに笑う。
――無理だよ。
水面が、ひび割れる。
なら。
いっそ。
殺してしまおう。
その思考は、甘くて、静かで、危険だった。
葵の瞳が、わずかに濁る。
零が、囁く。
――さよなら。
まだ、声には出ていない。
でも。
何かが、確実に始まった。
強欲が消えたあと。
瓦礫の粉塵が、ゆっくりと落ちていく。
春はまだ天音を抱えたまま。
「……大丈夫か」
その声が、葵の胸に刺さる。
違う。
分かってる。
でも。
零が、静かに笑った。
――もういいよ。
次の瞬間。
足元が、鳴る。
パキッ。
空気が凍る。
春の足が、凍結する。
天音も。
鷹見も。
動けない。
地面から、氷柱が伸びる。
冷気が、裏世界を白く染める。
「……葵?」
春が、振り向く。
違う。
その目は。
水卜葵じゃない。
乾いた笑い。
「は……」
もう一度。
「はは」
零が、前に出る。
髪が、白く染まる。
瞳が、氷の色に変わる。
「やっぱり私は」
氷が、空を覆う。
「嫉妬の王だ」
天音が、息を呑む。
葵の身体。
でも。
立っているのは、零。
春を見る。
まっすぐ。
迷いなく。
「守ったね」
微笑む。
「迷いなく」
胸が、痛む。
「じゃあね、春」
一歩、後退する。
氷の壁が、三人を隔てる。
「強欲」
その名を、呼ぶ。
遠く。
裏世界の歪みが、反応する。
零の足元に、氷の道が伸びる。
「一人で王になれると思わないで」
振り返らない。
「私は、私のやり方でやる」
そして。
強欲の消えた方向へ、走る。
氷の残滓だけを残して。
氷が、砕ける。
足の拘束が解ける。
春は、追いかけようとする。
でも。
動けない。
「……零」
遅い。
天音が、静かに言う。
「行かせたのは、あなた」
春は、答えない。
答えられない。
選んだ。
それだけは、事実だった。
裏世界が、静かになる。
でも。
盤面は、完全に変わった。




