ep86.今はまだ人間だ
静寂が、少しずつ緩む。
春が立ち上がる。
葵の額の血は、もう止まっている。
零が少し距離を取る。
その時。
背後から、腕が回った。
「はーる♡」
甘い声。
温度が一気に上がる。
「……あ?」
魅魅が、後ろから春にぴったりとくっついている。
「いやぁ〜怖かったぁ」
わざとらしく震える声。
「戻れないのかと思ったよぉ?」
そして。
そのまま、春の頭をくしゃっと撫でる。
「よく戻ったね〜えらいえらい♡」
春の顔が一瞬で引きつる。
「おい」
「調子戻るの早ぇな」
魅魅はにやにやする。
「だって死んでないし?」
「死ななきゃセーフだよ」
ぎゅっと、さらにくっつく。
「それにぃ」
「暴食半分抱えた王様とか、最高にそそるんだけど?」
春のこめかみに青筋。
「離れろ」
「やだ」
その瞬間。
空気がピキッと凍る。
「……くっつきすぎ」
零の声が、低い。
氷が足元から広がる。
葵も立ち上がる。
少しふらつきながら。
「そうだよ」
「さっき人吹っ飛ばしといて、何いちゃついてんの?」
天音も、静かに口を開く。
「距離感おかしくない?」
春が、ぎくりとする。
魅魅は、きょとんとした顔。
「え?」
「嫉妬?」
「可愛い」
零の額に青筋。
「可愛くない」
氷の粒が空気に舞う。
葵が春の腕を引っ張る。
「ちょっと離れて」
天音がもう片方に立つ。
「状況分かってる?」
魅魅が、じっと春を見る。
「……なにこれ」
小さく笑う。
「取り合い?」
零が即答。
「違う」
葵が即答。
「違う」
天音も。
「違う」
三方向から睨まれる春。
「俺に言うな!」
魅魅が、ふっと目を細める。
「ふーん」
「じゃあ私、もっとくっつこ」
がっつり抱きつく。
零の氷が一段冷える。
「やめろ」
葵が一歩前に出る。
「ほんとなんなのもう!」
天音も珍しく声を荒げる。
「今それやる?」
春が、頭を抱える。
「……マジで勘弁してくれ」
その様子を見て。
魅魅が、くすっと笑う。
少しだけ、ほんの少しだけ。
安堵の混じった笑み。
「うん」
「ちゃんと“春”だ」
それだけ、ぽつりと言う。
零が一瞬、目を伏せる。
葵も、少しだけ表情を緩める。
天音も、静かに息を吐く。
さっきまで。
春は、怪物になりかけていた。
今は。
ちゃんと面倒な男子高校生だ。
裏世界の空は、まだ歪んでいる。
暴食は生きている。
飢餓も消えていない。
でも。
今だけは。
少しだけ。
人間だった。




