ep83.恐怖と安堵。
葵の血が、瓦礫に落ちる。
その赤が、やけに鮮明だった。
春の呼吸が荒い。
瞳が揺れている。
だが。
飢餓は、まだ消えていない。
喉の奥で、何かが蠢いている。
「足りない」
零が動く。
一瞬で距離を詰める。
氷が爆ぜる。
春の両肩を掴む。
冷たい。
容赦ない冷たさ。
「目、覚ませ!!」
凍気が、春の身体を包む。
表面を凍らせるのではない。
内部へ。
暴食の半身に向けて、突き刺す。
「それはお前じゃない!」
氷が、黒を締め上げる。
暴食の気配が、春の中で暴れる。
飢餓が唸る。
「離せ……!」
春が零を振り払おうとする。
だが零は離れない。
氷がさらに強まる。
「葵を見ろ!!」
その声で。
春の視線が、ゆっくりと横へ向く。
瓦礫の中。
血を流しながら、それでもこちらを見ている葵。
震える手。
でも、逃げない。
その視線。
信じている目。
「……っ」
飢餓が、一瞬だけ、鈍る。
零がさらに叫ぶ。
「お前が壊れたら、私が止めるって言っただろ!」
氷が、春の胸を貫く。
冷たさが、意識を引き戻す。
暴食の半身が、軋む。
春の呼吸が乱れる。
「……止まれ」
自分に言い聞かせるように。
「止まれ」
黒が、収縮する。
完全には消えない。
だが、暴走は止まる。
その瞬間。
暴食が、動いた。
削られた半身を抱えたまま。
巨大な都市の影が、ゆっくりと後退する。
笑っている。
声は出さない。
だが、確実に。
「理解した」と言わんばかりに。
裏世界の空が歪む。
吸引が逆流する。
瓦礫が、暴食の中へ戻っていく。
撤退。
追撃はできない。
今の春に、それは無理だ。
暴食は、最後に。
春を見た。
値踏みするように。
そして。
消える。
裏世界に、静寂が戻る。
残ったのは。
血。
崩れた地面。
震える春。
氷を解かない零。
そして。
動けない葵。
春が、零を見る。
「……ありがとな」
声が、掠れている。
零は、しばらく睨んだまま。
やがて、ゆっくり氷を解く。
「次は本気で殺す」
震えていた。
怒りで。
恐怖で。
安堵で。
そして。
遠くで。
咲が、にやりと笑った。




