ep82.飢餓
飢餓が、頭蓋の内側を掻きむしる。
視界が、赤い。
音が、遅い。
鼓動が、うるさい。
暴食の半身が、春の中で蠢く。
「足りない」
喉の奥で、誰かが呟く。
違う。
俺じゃない。
でも、否定できない。
目の前で、暴食の残り半分が蠢く。
都市の影が、うねる。
削ったはずなのに。
まだ足りない。
もっと。
もっと力がいる。
もっと喰えば。
終わる。
終わらせられる。
視界の端に、動く影。
葵。
傷だらけで立ち上がる。
氷の粒子を散らしながら、春の方を見る。
「……ハル」
声が、震えている。
でも。
逃げない。
その視線が、まっすぐすぎる。
危険だ。
足手まといになる。
喰えば、強くなる。
守れる。
守るために。
一瞬。
理屈が、すり替わる。
春の身体が、勝手に動く。
「下がれ」
低い声。
でも、葵は動かない。
「違うよ……それ、違う」
次の瞬間。
衝撃。
空間が歪む。
黒と氷がぶつかり合う。
爆ぜる。
葵の身体が、弾き飛ばされる。
瓦礫に叩きつけられる音。
鈍い。
ありえない角度で、転がる。
静寂。
春の視界が、ゆっくりと色を取り戻す。
呼吸。
手が、伸びたまま止まっている。
指先が、震えている。
「……え」
地面に、赤。
葵の額から、血が流れている。
意識はある。
でも、動けない。
零が叫ぶ。
「ハル!!」
その声で、世界が戻る。
春の瞳が、完全に焦点を取り戻す。
自分の手を見る。
黒が、まだまとわりついている。
「……俺」
喉が、掠れる。
「俺、今……何した?」
葵が、ゆっくり目を開ける。
痛みに歪みながら。
それでも。
春を見る。
責めない。
怒らない。
ただ。
「……戻ってきて」
小さく、言う。
その一言が。
春の心臓を、握り潰す。
飢餓が、止まる。
ほんの一瞬。
止まる。
だが。
暴食は、笑っている。
削られた半身が、再び蠢く。
都市の影が、さらに膨れ上がる。
飢餓は消えていない。
春の中に、確実に残っている。
そして今。
全員が理解した。
春は。
“もう安全ではない”。




