66話 姉川⑨ 浅井の猛攻
― 兄・信長 ―
「うわっ!」
無意識に叫び、あわてて涎を拭った。周りを窺う。皆の怪訝そうなカオがイタイ。
昨晩はかなりムシムシしていたが、この時期明け方はまだまだ寒く、ブルッとして尿意を催した。
「寝てましたね? 殿?」
「ね、寝るかっ! 失敬な」
「いつ戦闘になるか知れないってのに寝れるって、大物の証拠よ。さすがわたしが見込んだ男だわ」
松永弾正の投げキッスでカンゼンに目が覚めた。……あ、いやいや、ボクは寝とらん、ヤツのせいで一層頭が冴えた。
「今さ、馬のいななきが聞こえたんだよ。それで目が覚め……それが気になってな」
「深い霧です。これが晴れたら驚きの光景が飛び出すかもです」
半兵衛ちゃんの小声に一同がピリッと緊張した。
――果たして、東方に仰ぐ伊吹山系より、早天の陽光が射した頃。湖畔の原野に大量の旗指物が居並んでいた。
「三盛亀甲に花菱。浅井ですね」
「……ああ。隣に朝倉もいるな」
姉川と言う河川を挟み、両軍が対峙する形となっていた。半兵衛ちゃんの推察通り、想定していたとは言え、まさに戦慄を覚える光景だった。
ほら貝が低く高く、唸る音を立てた。
昔、テレビで見たことがある。戦の始まるときに決まって鳴る音だ。浅井方が吹かせているのだろう。結構な威嚇効果がある。少なくともボクには絶大に効いている。
そして、いつの間にか息遣いが聞こえてきそうなほど急接近した敵影に、ボクは今更ながらに当事者意識に目覚め、心中を震わせた。
「はじめてなんじゃないの? 真剣に合戦に取り組んだのは?」
「……そーかもな」
ダンジョーのイヤミも気にならないほど、ボクは緊張していた。
「我が織田軍は池田、木下、柴田、森ら、精鋭部隊をすでに前面に展開させています。やはり奇襲を仕掛けるつもりだったようですが、これで浅井も狼狽しているでしょう」
「……いいえ、半兵衛ちゃん。それはちょっとばかり詰めの甘い推測よ?」
織田軍の後方で鬨の声が上がった。ほら貝に呼応しているのは明白だった。
「横山城!」
浅井の拠点、横山城が揺れんばかりに雄たけびを上げている。
ボクは思わず半兵衛ちゃんを睨みつけた。彼女はギョッとした様子でそちらを振り返っている。足をわななかせているのが分かった。
確かに横山城には安藤社長ら、美濃三人衆を押さえに配置していたが万全ではない。牽制するだけの人数だ。もしその城に思わぬ人数が潜んでいたとしたら、織田軍の退路は完全に断たれる。
全軍に悪寒が走った。
突然、友軍である徳川軍の一団が発砲を始めた。
驚いてそちらを見ていると、半兵衛ちゃんが鋭く叫んだ。
「前方、来ます!」
「な、なんだと?!」
振り見ると、前衛の坂井政尚隊が既に崩れたっていた。第一の備えがもの数秒も持たず、瞬殺されたのだ。浅井勢は黒いカタマリを形成し、鉄砲の掃射の終わらぬうちに馬と長槍を混成させ、渦巻きの錐となり、坂井隊の陣中深くまでえぐりこんでいる。
「崩壊するぞ! いったん退け! 池田! 秀吉! 勝家! お前ら、坂井を援護しろ! 浅井を取り囲め!」
ところがヤツらときたら、突如ヘナヘナと活力を減退させ、まるで入場ゲートを開くように敵兵をお通ししているではないか?! いや、そうとしか見えないんだが?!
「バッキャロー! オマエらヤル気あんのか?! ナニ手柄を譲り合ってんだ?! 向こうは小勢なんだぞ! しっかりしろやっ!」
「殿! しかし浅井の先鋒は彼の磯野丹波です。簡単には倒せませんよ」
「半兵衛ちゃんっ! オマエ、しっかりしてんだか、てんでダメダメなんだかよく分からんぞ?! もっとマシな発言しろ! ボンクラ!」
「やーだ、パワハラぁ。そんなだから妹ちゃんに嫌われるのよぉ?」
「だっ、ダンジョォォ! テンメエ、首飛ばしたいんかあ!?」
「サイアクサイアク。我を忘れたキレ男子なんて、ホントにサイアク」
むうううっ!
「徳川家康に伝令! お前ら、何とかしろ! 活躍の暁にはご褒美にロウソク攻めと緊縛攻めのミックスを約束してやろう! 以上!」
「承知! 伝令つかまつる!」
かなり前の回で説明したが、家康は超マゾ男くんだ。これで途方もない働きをしてくれるはずだ。
「こおらあああ! 入場ゲートどもッ! テメエらグダグタしてっと、家康と同じ目に遭わすぞ!」
叱咤のつもりだった。このことによって奮起すると思った。――だが。
「注進! お市さま、ご出御! お市さま、ご出御!」
「な、なんだと?」
「浅井の中軍にお市さまを確認! 柴田、木下、池田隊、ことごとく混乱。壊滅的損害です!」
「なんだと……」
前方を凝視する。
敵味方入り乱れての混戦の中、妹の存在は確認できない。イライラが募り、ボクは近場の床机を蹴り倒した。
――ま、負ける、のか?
「情けない!」
ダンジョーの侮蔑のこもった一喝。
「何?!」
「情けないって言ったのよ! 開戦前からこの瞬間に至るまで、あなたヤル気あったの? 本気で戦う気あったの? あなたのその情けない態度が、そっくりそのまま織田軍全体の士気にに伝播してるのよ? この無自覚お兄さん」
あらためて前方の敵を見て、味方を見渡して、ダンジョーを見た。睨もうとしたが泣きかけたので口を歪めただけで終わった。
「佐久間隊に命令! ジープのガソリンを満タンにし、本陣前に並べろ! そして敵先鋒、磯野丹波が迫ったら一気に火をつけろ!」
「は。……すべて、ですか?」
「そうだ、三台すべてだ。とにかく磯野を止める」
ほんの五分後、わずか五十メートルほど先で轟音とともに火柱が上がった。
これによって浅井の快進撃が止まった。




