65話 姉川⑧ 義憤と苦悩
― 妹・市 ―
この頃からだろう。ときどきお兄ちゃんを《あの人》って言うようになったのは。
「どうした、市?」
「あ。ナガマサ? どうしたって、な、なにが?」
「右手」
「え? ええっと……、これは背伸び?」
格子の外。見えるは目前に展開する、虎御前山の陣容。山あいに生い茂る木々の影に、たくさんの人間がうごめいているのが手に取るようにわかる。その中に、きっといるに違いない人。
――実はお兄ちゃんに手を振ろうとしてたなんて、……言えない。
「見ろ。織田軍が引き上げていくぞ。小谷城の難攻不落ぶりにようやく気付きやがって」
桐の文様を描いた無数の旗が続々と山をくだり、なだれを打って南に遠ざかっていく。
「朝倉を源とした木瓜旗で無く、将軍から頂戴したっていう五三桐をひけらかせてやがる。細かいところにウザイ演出をする奴だ。信長らしいぜ」
緊張が解け、心にゆとりが生まれたのか、ナガマサからからかいの独白が漏れた。
矢文やドローン配達のレター便で、何度もわたしに帰順を促していたお兄ちゃん。とうとう諦めたのかな。勝利を信じて疑わなかったチームがまさかの負けを喫して、逃げるように試合場を後にする。そーゆーのに何か似てるって思った。
そう過信してた。でも。予想外のことが起こった。
麓の町、清水谷の何処かで、白い煙の筋が一本、細く登り。
いぶかしく感じる間もなく、その異変は町のあちこちに発生し広がり、とてつもない業火を引き起こした。一瞬で全体が炎と煙の波に覆いつくされた。
その間、わたしは声が出なかった。
「織田勢の焼き討ちです!」
華子さんと万福丸が住んでいた家も、久政おじいちゃんのお屋敷も、ナガマサのおうちも、道すじの家々も全部、飲み込まれ跡形もなく焼き尽くされた。
「民らは皆、城に避難している。心配ない」
ナガマサが背中越しに、わたしの肩に手を置いた。身を預けたわたしは、震える声をしぼり出す。
「……あの人(、、、)許せない」
「ああ。オレもだ。撃って出る」
組まれたナガマサの両腕に手を添えたわたしは、親の敵討ちを請負ってくれるかのような、言い知れない頼もしさを彼に抱きつつ、カオを見上げた。
「小さい頃からずーっと一緒だったし。……あ、オナカ減ったんだな。あ、いまイライラしてんだな。とっても嬉しそうだな。……なんて。……でもね、てんで読めなくなっちゃった。あの人(、、、)が何を考えてんのか、ちっとも理解できなくなっちゃった」
「信長のことか?」
「あんなハラスメントのカタマリで自分勝手な人なんて、わたしのお兄ちゃんじゃないよ。……いっぺん懲らしめてやんなきゃ、気が済まない」
「織田の敵になるんだぞ? それでいいんだな?」
コクリとうなづく。
「……チューして。ナガマサ」
「はあっ?」
「お願い」
彼の目が左右に泳いだ。途端にわたしも現実に帰還した。浅井家中の面々が見て見ぬふりであっちの方向を向いている。
「その、だな。市」
もっと早く、うまいコト気付かせてよっ。わたしもわたしだけどっ。
「クー。モンモン!」
「は、はいっ!」
「久政さんに伝えて。これからナガマサを先陣に撃って出る。目標、織田信長。総がかりであの人を撃滅するっ」
「はいっ、りょーかいっ」
「キエモンさん」
「……ここに」
「わたしも出撃する。キエモンさんの部隊に付いて行きます」
ナガマサが後ろでわめいたけど、ムシ。女のわたしだって、ムシャクシャして暴れたい時くらいあるから。
こうなれば、わたしも不幸の手助けしてあげるよ、お兄ちゃん。
◇ ◇ ◇
― 兄・信長 ―
「信長旦那。徳川本隊五千が着到しましてござる、キキ」
「ああ。家康には全裸後ろ手縛りで本陣に来いと伝えろ」
「よくもまぁ、それほどのごちそうを思いつきますな?」
「金ヶ崎で世話になった、ささやかな礼だ」
すると本当にそうして現れた家康に、ボクは多少嫌悪を抱きながら、シカト攻めで対応した。感涙したヤツは「粉骨砕身に勤めまする」と周囲にはばからず絶叫し、自陣に戻っていった。
「朝倉勢が浅井に合流した模様。その数、八千」
伝令が汗を滴らせて報告した。ありがとうな。でも、このあたりは視界を遮るものは何もない。旗指物がここからでもよく見えてるけどな。
「横山城を助けるつもりでしょうか」
丹羽くんが半兵衛ちゃんに意見を聞いている。
「えっと。それなら、もっと積極的に攻勢を掛けてくるはずです。それが手前の大依山でジッとしてる。……ということはたぶん、彼らのねらいは我々。織田本隊でしょう。わたしだったら夜を待って全軍で奇襲します。決戦を仕掛けます」
「総力戦を挑んでくるってのか?」
「恐らく。織田軍をただ追い払おうって雰囲気じゃない気がします」
ボクの率いる軍勢は徳川加えて二万。あっちは一万ちょっと。倍ほど違う。それなのに、ひるんで謝るどころか、全力で戦うつもりだろうと言う。勝てると思ってるのか?
ボクの内なる動揺はピークを迎えつつあった。
このまま戦になってしまったらどうするんだ?
そもそも本気で戦いたいのか?
だけど、きっと怒っているだろう長政や妹とどうやって仲直りするんだ?
やっぱり松永弾正の言う通り、力づくで言うことを聞かさなきゃ、どうしようもないのか? それしか手が無いのか?
夕立後、湿気を孕んだ夏の暮れどき、緊張と興奮に包まれる将士たちの中で、ボクは低いテンションを維持したまま成り行きの戦闘状態に突入しようとしていた。
◇ ◇ ◇
― 妹・市 ―
「奇襲しよう。ナガマサ」
「な、なんだと?」
小勢のわたしたちが織田方に互角の勝負を挑むには奇策しかない。そう思った。
「一理あり。ではそれがし、磯野丹波が先陣を切り、信長本隊を撃滅いたしましょう」




