幕間 途切れた雨音
エルナ・アンダーソンは平凡な家庭に生まれた、ごく普通の少女だった。
それほど裕福な家庭ではなかったがたった一人の娘へ両親は惜しみない愛を注ぎ、エルナも同様に両親を愛した。
何気ない一日が幸福に満ちており。幸せな日々がこれからも続いていくと、信じて疑っていなかった。
――瞳を閉じれば、いつだって思い出す。
半年前の休日。
家族三人で街へと出かけようと何日も前から予定を組んでいたが、その日は朝から生憎の雨模様だった。大雨と言うほどでもなかったが、雨粒が地面を叩く静かな騒めきは家の中まで届いてきた。
「思ったよりも強いな……」
「大丈夫よ、午後には晴れるって天気予報で言ってたし。こんな時のために新しい傘も買ったんだものね?」
いつもならばあまり好きじゃない雨でも、今回ばかりは気にならない。ここ数週間は晴れ続きで、せっかく新調した傘を使う機会がなかったから。
「おや?」
支度を終えて出発しようとした途端、父が訝し気な声を上げたのを覚えている。
理由はすぐにわかった。
「雨音が聞こえなくなったわね。もしかしてもう止んだのかしら?」
「それはラッキー……いや、うちのお姫様にとってはアンラッキーかな」
茶化すような父の態度に頬を膨らませたが、すぐに気持ちを切り替えた。新品の傘はまた別の機会に活躍することだろう。
これから過ごす時間を前に、天気の違いなど些細な問題だ。
ただ一つ、気になったことがあったとすれば。
雨音が徐々に消えていったのではなく、突然聞こえなくなったことくらいか。
両親と三人、玄関をくぐって外へ出る。
依然として薄暗くはあったが、確かに雨は止んでいた。
陽は差してこないのかと、空を見上げて。
「……え?」
目にした。
空がガラスのようにひび割れ、砕け散る瞬間を。
「そういうわけで、キミが元の世界に変えることができる可能性は限りなくゼロに近い」
長い説明の末、数奧博士と名乗った少年はハッキリと告げてきた。
自分とそこまで年は変わらないだろうに、滔々と知識を披露する姿は同じ子供とは思えないほどに理知的だった。説明自体もわかりやすく、完全な未知である次元技術について初歩的な部分であれば理解できたほどだった。
しかし、理解できたが故に認める他なかった。
少年が断言した通り、元の世界に帰ることは叶わない。
もう二度と友人とも。両親とも会うことができない。
涙が枯れ果てるまで泣き続けた後は、起きては眠る毎日を過ごした。これは長い悪夢で、何度目かの目覚めで元の世界に戻っているかもしれないと。そんな淡い期待すらも数日で擦り切れ、それからは与えられた部屋で死んだように眠り続けた。もう夢の中でしかあの暖かな時間戻れないとわかってしまったから。
「あまり中途半端な希望を抱かせたくなかったんだけどね」
一週間ほど経った頃だったか。
殆ど寝たきりだったのを見かねてか、食事を持ってきた博士はそう切り出した。
「キミが……キミたちがこの世界へ迷い込んでしまった原因は前に説明した通りだ。アクシスに存在するウロボロス機関が、次元軸を歪め本来交わらない世界を交叉させてしまった」
「……」
「三年後の破滅を回避するために、ボクらはあれを破壊しなければならない。そして世界の在り方が正常に戻れば……もしかしたら、キミたち転移者も在るべき世界へ戻るかもしれない」
「……」
「無論、何が起こるかは未知数だ。だからこそ可能性があるとも言えるのだけど」
彼が提示したのは儚い希望だった。
どこまでいっても推測の域は出ず、やってみるまではわからない。縋るにはあまりにも細く頼りない望み。
「いずれにせよ今しばらく待っていて欲しい。来月には都市の主戦力が東京へ向かうらしいから、そこで片を付けてくるよ」
「……私は」
「うん?」
「私は、何をすればいいの」
それでも縋るしかなかった。
僅かにでも可能性があるのだとしたら、望まずにはいられなかった。家族と再会するという希望を捨てずにはいられなかった。
何度の朝を迎えても現実は変わらない。ただ夢見ているだけでは、夢で見たあの時間に一生届くことはない。
もう、眠っているだけではいられない。
やれることは全てやる。例えそれがどれだけの犠牲を払う選択であろうとも。
……そこまでやっても駄目だったなら。
きっと諦めもつく。
東京のアジトに用意されたゲートを通り、エルナは再びアクシスへと降り立った。
時刻は午前九時をちょうど過ぎた頃。ゲートを抜けた先は人気のない路地裏で、表通りからは無数の人の気配を感じる。突然現れたエルナに気づいた様子はない。
ひとまず無用な騒ぎにならず済んだと、息を吐こうとして。
「やぁ」
「っ……!?」
完全な不意打ちだった。
飛び出かけた悲鳴を押し殺して振り返れば、そこには間違いなくさっきまでは存在していなかった人物がいた。
サイラム・グラフ。博士と行動を共にする転移者の中では最古参であり、最も得体が知れない青年。
建物の外壁に寄りかかりながらエルナへ軽く手を振ってくる様子はフレンドリーだが、虚無を張り付けたような無表情があらゆる印象を上塗りしている。
彼と比べたら死体の方がまだ表情豊かかもしれないと、エルナは密かに思っていた。
「こっちに来れたってことは首尾よくいったんだね。ぼくは暇だったから適当に都市をぶらついてたよ。キミにとってはどうでもいいだろうけど」
「何だ、まだここにおったのか」
どう対応したものかと困っていたところ、続けてクラウス・イェーガーがゲートから姿を現した。二メートル近い巨体が完全にゲートから抜けると、空中に開いた穴は瞬く間に閉じて消え去ってしまった。
「そりゃいるさ。ぼくの役目はエルナの護衛だからね」
「護衛なんぞ必要か? 能力を発動してしまえば近づけるものなどおるまい」
「一人だけ厄介なのがいるって博士が言ってたでしょ。《リィンフォーサー》を使うガーディアンは直接対処する必要があるんだよ」
「あー、そんなことを言ってたような言っていなかったような……まぁよい。そういうことなら対処は貴様に任せておくわい」
「うん。クラウスは《転移ゲート》の破壊をよろしく」
「おうさ。さて、こっちに殺し甲斐のある戦士は残っておるかな……」
獣が牙を剥くような笑みを浮かべ、クラウスが路地裏から出ていく。あんな顔で天下の往来に繰り出せばちょっとした騒ぎになりそうだが、通行人の悲鳴は聞こえてこなかった。クラウスが表情を取り繕ったのか、都市の市民たちが図太いのかはわからない。
「エルナは自分の仕事わかってるよね。クラウスでもあるまいし」
「わかってる」
「ならよかった。じゃあこれを渡しておくよ。使い方は知ってるでしょ」
「うん」
サイラムから手渡されたものを見て、エルナは小さく頷いた。
それは一見すれば、デフォルメされたクマのぬいぐるみだった。エルナが抱えるのにちょうどいいほどの大きさだが、綿が詰まっているにしては若干重たい。
抱きかかえるとちょうど、ぬいぐるみの耳が口元に来た。
逡巡は僅か。
静かに息を吸い込み、エルナはそっと囁きかける。
「強制連結」
――視界が開く。
路地裏を飛び出し、雑踏を超え、空へと昇り。今までは目を瞑っていたのかと錯覚するほどに広がっていく世界。
無限の広がりを見せると思われた景色だったが、ある時点をもってその領域が定まる。
広大な都市を見下ろすような感覚。ただ俯瞰的に見るのみならず、道行く人々の顔一つ一つまでも認識できる。
『《サードアイ》掌握完了。《フリズスキャルヴ》動作正常。負荷率50%』
「さぁ全てがキミの手の中だ。この都市を眠らせてあげようじゃないか」
言われるまでもない。
頭の奥が僅かに疼くのを無視して、エルナは己の力を行使した。
認識したもの全てを減速させる、その力を――
「……凍れ」
この瞬間。
都市は吹雪の中へと閉ざされた。




