Chapter01-3
――あ、死ぬわこれ。
頭に浮かんだのは、他人事のような言葉だった。
実際、現実感が湧かなかった。
気がついた時には、見慣れた通学路とは月とスッポン以上にかけ離れた風景の中に一人佇んでいて。
俺に向かって猛スピードで迫ってくる化け物は、それこそゲームにすら出てこなそうな、この世の物とは思えない造形をしていて。
不気味に光を反射する両腕の鎌は、既に誰かを手にかけた後だったのか赤黒く染まっていて。
「くっ――」
近づいてくる鉄錆のようなの臭いがツンと鼻を刺し、逃避気味だった意識が現実に引き戻された。
このままでは不味い。
今すぐ逃げろと本能が叫び、数歩後ずさるが。
「うぐっ!?」
脚が縺れ、その場に尻餅をついてしまう。立ち上がろうとするが、間に合わない。感覚が引き延ばされ、何もかもがスローモーションのようだ。全ての音が遠く、ただ自分の心臓が早鐘を打つ音だけが煩いぐらいに体内で響いている。
もう変異体との距離は、一メートルもなかった。
――駄目だ、殺される!
決定的な死を予感した俺を、異形の陰が覆い尽くし――
そのまま、後方へと通り過ぎて行った。
「……え?」
起きたことに、理解が及ばない。
小さくなっていく足音と姿を、ただ茫然と見送る。
やがて変異体が曲がり角の向こうへ消えたのを確認し、迫る死への反応として拡張された感覚が正常に戻っていった。
「助かった、のか」
気付かぬうちに荒くなっていた呼吸をどうにか落ち着かせながら、地べたに胡坐をかいて状況の確認に務める。
まず、俺は生き残ったらしい。
呼吸は苦しいし心臓は痛いくらいに鳴ってるし恐怖で今にも泣きそうだが、それらの感覚があるということは生きている証拠だ。
こちら目がけて走ってきたあの変異体はもう視界内にいなかった。奴は俺の頭上をそのまま通過していったのだ。甲殻が路面を打つ音はあっという間に遠ざかっていき、今や無人となった辺りは静寂に包まれていた。
俺に気づかなかったということはないだろう。あれはここに現れた直後、確実に俺を凝視していた。感情の籠らない複眼から注がれる無数の視線を、俺は確かに感じた。
その上で、あれは俺を完全に無視していった。
習性……あんなナリで、もしかして本当は人を襲わないとか?
でもあの鎌みたいな前足にべったりついてたのって明らかに血だったし、危険な生物じゃなきゃあんな物々しいサイレンも警報もならさないだろうし。
まさか俺だけ例外で攻撃対象にならないなんてことは……いや、そんな都合の良すぎる例外があるはずないだろ。流石にそこまでおめでたい頭はしていない。
あと他に可能性があるとすれば気まぐれか、それとも好み? 男よりも女の方が(食べ物的な意味で)好きとか? うーむ、肉質の問題なのかな。
「……つか、意外と余裕だな俺」
少なくとも、ふざけたことを考えられる程度には落ち着いるらしい。
恐くて泣きそうと思いはしたが、むしろその程度で済んでいる。普通あんな化け物に殺されそうになれば、実際に泣き叫びながら失禁の一つくらいしてもおかしくなかったはずだ。念のため言っておくが、俺は漏らしてないぞ。
その上、結局すっころんで失敗に終わったものの、すぐに逃げを打とうとする判断力すらあった。自覚している以上に、俺は心臓に毛が生えているのだろうか。これでも根は小市民のつもりだったんだが。
まあ、思いの外俺が豪胆だったのは別に悪いことでもない。
この状況において錯乱せず、冷静に次の行動を考えられるのは確実にプラスだった。
「取りあえず、移動しよう」
自分にそう言い聞かせつつ、俺はよっこらせと立ち上がる。
警報によると都市の各所にはシェルターなるものがあるらしく、そこへ行けば多分安全なのだろう。ルートガイドとやらに従えばたどり着けるようだが。
「それらしいもんは見当たらないな」
路面や周囲に浮かぶ映像の一つ一つにまで目を凝らすが、ルートガイドのルの字も発見できなかった。もしかしたら俺がここの正式な市民ではないからだろうか。
ここまできて、俺は今いるこの場所が元いた世界と同じとは微塵も思っていなかった。
俺の知る地球にはあんなキメラも尻尾巻いて逃げ出す前衛的モンスターは生息していないし、こうして改めて都市を見ているともう技術水準とかが違い過ぎる。具体的にどう違うのかと問われると答えに窮するが、素人目に見ても進んだ文明であることは間違いない。
どうやら、これは本格的に数奇な運命を辿ってしまったようだ。
「異世界転移、ねぇ」
こういう時は、情報収集をするのがセオリーだろうか。
飛ばされた理由。或いは呼ばれた目的。元の世界に帰る方法――
欲しい情報は枚挙に暇がないが、目下手に入れるべきなのは。
「どこに避難するかだよな……」
情報を集めるにしても、今死んでは元の子もない。
試しに最寄りの建物のドアが開かないか試してみたが、予告通りロックされたドアは押しても引いてもうんともすんとも言わない。どころか、どんなに力を加えても手ごたえがなく、感覚的には暖簾に腕押しだった。ちょっと乱暴に叩いてみても、拳が痛まない。
建物に展開された≪アブゾーバー≫とやらの効果のようだ。確かアブゾーブって英語で吸収するとか減衰するって意味だった気がする。てことは、これで外部の――変異体の攻撃から建物を保護しているのか。
強制ロックじゃ中に人がいてもくれないだろうし、地道にシェルターを探す他ないのだろう。
変異体を掃討するガーディアンとやらの存在も色々と未知数だし、端から助けを期待するのは軽率だ。人ならまだ話が通じるかもしれないが、もしキラーマシン張りの戦闘機械だったとしたら巻き添え食って死にかねない。
折角拾った命だ。いのちだいじにでいこう。
「……気は進まないが、行くか」
半ば諦めに近い心境で、俺は変異体が走り去っていった方とは反対の方向を見る。
わざわざ同じ方向に行って鉢合わせるリスクは回避したかった。さっきのような偶然がそう何度もあるとは限らないし、出来れば二度と会わないのが理想だ。そうなると、自然と奴から離れる方向に足が向く。
向かう先に広がっているだろう光景を思うと気が滅入るが、背に腹は代えられない。
俺は覚悟を決めるべくニ・三度深呼吸をしてから、先ほど捨てた鞄を拾って肩にかけなおし、歩き出した。
五分ほど道なりに移動すると、案の定というべきか。
外れてればいいなという予想は見事に的中した。
「ごほっごほ! あぁくそっ、やっぱりか」
場に漂う強烈な臭いにむせ返りながら、俺は毒づく。
率直に言って、地獄だった。
ある種の機能美を感させる街並みは数十メートルに渡って、蹂躙された市民たちの血で真っ赤に彩られている。道に転がる死体の殆どは人の形をしておらず、頭から齧り取られた形跡があったり胴体がいくつにも分割されていたりと散々な状態。
血塗れの凶器を持った化け物が来た方向だったから薄々感づいてはいたが、やはりあれは人を襲う類の生き物みたいだ。
死体の損壊が激しく散らばっているせいで詳細な人数は判断できないが、目につくだけでも犠牲になったのは三〇人前後だろうか。これをあの変異体がやったのだとしたら、俺が見逃されたのは単に奴の腹が一杯だったからかもしれない。
ともあれ、いつまでも立ち止まっている訳にもいかなかった。迂回する時間も勿体ない。
「うえぇ、もうこれどこ踏んでも血みどろだよ……」
ローファーの裏がべた付く感触に鳥肌を立てながら、俺は血塗られた領域を突き進む。
路面には血だけではなく、切断された死体からこぼれた中身がぶちまけられている。昔恐いもの見たさで友達と借りたスプラッタ映画のような光景だが、実物と映像では比べ物にならない。視覚だけならともかく、嗅覚への打撃がキツい。
「うっぷ……こんなことなら朝飯抜いてくるんだった」
言っても詮無いことだが、言わずにはいられなかった。
口元を抑えて、朝飯を戻しそうになるのを必死に耐える。千切れて転がっている内臓や四肢を避けつつ時には退かし、乾燥しかけの血液が粘着してくる道を進むのは精神的にかなり堪えた。




