十 署名の前に
一月二十七日。
京都停戦予備協定の文案が、ようやくまとまった。
内容は、当初の構想よりも限定的なものだった。
全面的な停戦ではない。
中国大陸全域からの日本軍撤退を約束するものでもない。
満洲問題も、最終的な解決には至っていない。
しかし、双方が一定の地域で戦闘停止を試み、捕虜の扱いと民間人の保護について協議を続けることには合意した。
さらに、日本軍の段階的撤退について、正式な交渉を開始することも盛り込まれた。
署名式は、翌日に予定された。
その夜、宋子文は宿泊先で文書を読み返していた。
机の上には、重慶から届いた電報が置かれている。
蒋介石からの指示だった。
中国の主権を損なう合意は認めない。
日本軍の撤退を最終目標とする。
満洲問題を棚上げしたまま、和平を成立させてはならない。
宋は、電報を読み終えた。
窓の外では、京都の街に雪が降り始めていた。
宋は、机の上の協定案を見た。
これで戦争が終わるわけではない。
しかし、何もしなければ戦争は続く。
中国では、明日も人が死ぬ。
その現実を前にして、完全な勝利だけを求め続けることが正しいのか。
宋は、しばらく考えた。
そして、署名することを決めた。
ただし、協定の最後に一文を加えるよう求めた。
「本協定は、中国の領土主権に関する各当事者の立場を変更するものではない。」
その一文がなければ、中国国民政府は署名できなかった。
昭和日本側も、満洲国に関する立場を維持できるとして受け入れた。
未来日本側は、妥協の余地が生まれたことに安堵した。
しかし、榊原は知っていた。
こうした曖昧な文言は、時として平和を守る。
同時に、将来の紛争の種にもなる。
それでも、今は必要だった。




