九 未来の責任
戦艦長門。
会談は、三時間を超えていた。
榊原と東條は、対米交渉、石油禁輸、中国大陸の戦争、南方進出について議論を続けていた。
意見は何度も衝突した。
東條は、米国が日本に一方的な譲歩を求めていると主張した。
榊原は、中国での戦争を続ける限り、米国との関係改善は難しいと答えた。
東條は、陸軍が容易に撤兵を受け入れるはずがないと言った。
榊原は、それでも交渉を始めなければならないと返した。
どちらも、相手を完全には説得できなかった。
やがて東條が言った。
「榊原総理」
「はい」
「あなたは、我々が戦争を始めれば何百万人も死ぬと言った」
「はい」
「では、戦争を始めなければ、その人々は全員助かるのですか」
榊原は口を閉じた。
「違うでしょう」
東條は続けた。
「戦争を避けたことで、別の戦争が起きるかもしれない。米国が譲歩しないかもしれない。ソ連が動くかもしれない。中国で戦争が続くかもしれない」
榊原は頷いた。
「その通りです」
「ならば、未来を変えることにも責任がある」
「あります」
榊原は答えた。
「だからこそ、私はここへ来ました」
東條は、榊原を見つめた。
「責任を取るために?」
「少なくとも、逃げないために」
東條はしばらく黙った。
やがて、静かに言った。
「あなたは、我々を愚かだと思っていますか」
榊原は驚いた。
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
榊原は、少し考えてから続けた。
「私たちは、結果を知っています。だから、過去の人たちの判断を簡単に批判できます」
東條は黙って聞いていた。
「でも、私たちだって、未来の結果を知らなければ、同じ間違いをするかもしれません」
榊原は机の上の地図を見た。
「だから、未来日本が正しいとは思っていません」
「では、何を信じる」
「今、分かっていることです」
榊原は答えた。
「戦争を始めれば、多くの人が死ぬ。それだけは確かです」
東條は、ゆっくりと頷いた。
「それは、我々も知っている」
「はい」
「だが、知っていても戦争を選ぶことがある」
「そうですね」
榊原は東條を見た。
「だから、選ばずに済む道を探したいんです」
長い沈黙があった。
その時、艦内の電話が鳴った。
海軍将校が受話器を取る。
顔色が変わった。
「総理」
東條が振り返る。
「何だ」
将校は、緊張した声で報告した。
「第一航空艦隊より緊急電です」
「内容は」
「未来日本の軍艦と接触」
一拍。
「さらに、米国海軍機と思われる航空機を確認したとのことです」
榊原が立ち上がった。
「米軍機?」
将校は頷いた。
「現在、両軍が接近しております」
東條も立ち上がった。
「交戦は」
「まだ確認されておりません」
榊原は、時計を見た。
真珠湾攻撃まで、残された時間は少ない。
しかし、歴史はすでに変わっている。
本来なら、この海域で米軍機と日本の機動部隊が遭遇することはなかった。
未来日本が現れたことで、起きるはずのない戦闘が始まろうとしている。
榊原は、黒田へ連絡するよう命じた。
「護衛艦まやに伝えてください」
「何と」
「絶対に先に撃つな、と」
黒田は短く答えた。
『了解しました』
榊原は受話器を置いた。
東條が彼を見ていた。
「榊原総理」
「はい」
「未来を変えるというのは」
東條は、ゆっくりと言った。
「思っていたより、難しいようですな」
榊原は頷いた。
「ええ」
窓の外には、穏やかな瀬戸内海が広がっていた。
その海から何千キロも離れた北太平洋では、二つの時代の日本人が、同じ海の上で向かい合っていた。
一方は、これから戦争を始めようとしている日本。
もう一方は、その戦争がどのように終わったかを知っている日本。
しかし、どちらもまだ、これから何が起こるかは知らなかった。
そして午後六時四十九分。
北太平洋。
空母《赤城》の見張員が、叫んだ。
「敵機、急降下!」
数秒後。
海面に水柱が上がった。
日本の戦闘機が旋回する。
米軍機が高度を下げる。
護衛艦の戦闘指揮所に、警報が響いた。
艦長、水城孝介は、レーダー画面を見つめた。
「……始まってしまったか」
彼の目の前で、史実には存在しなかった戦闘が始まろうとしていた。
それは真珠湾攻撃でも、ミッドウェー海戦でもなかった。
未来を知る者たちが、戦争を止めようとしたために生まれた戦いだった。
後に、この戦闘は「北太平洋偶発戦」と呼ばれることになる。
そして、そこで死ぬ二十三人は、本来ならその日に死ぬはずのない人々だった。




