二 誰の戦争か
会議が始まって間もなく、宋子文が発言を求めた。
背筋を伸ばし、通訳の準備が整うのを待ってから、ゆっくり口を開いた。
「最初に確認したいことがあります」
宋の声は穏やかだった。
「本会議は、日本軍の中国領内における軍事行動を終結させるためのものと理解してよろしいでしょうか」
昭和日本代表団の席で、外務省の次官が身じろぎした。
「その点については、双方の認識に相違があると考えます」
「相違?」
「我が国は、中国大陸における邦人の生命と権益を保護する責務を負っております。また、現地の治安維持についても考慮せねばなりません」
宋は、通訳の言葉を聞き終えてから答えた。
「日本軍がいなければ、中国人が自分たちの国を治められないという意味でしょうか」
「そのような意味ではありません」
「では、撤退に同意できますね」
次官は返答に詰まった。
宋は追及しなかった。
代わりに、鞄から一枚の写真を取り出した。
焼け落ちた家屋の前に、数人の子供が立っている。背景には瓦礫が積み重なり、遠くに黒く焼けた壁が残っていた。
「重慶です。昨年、空襲を受けた地区で撮影されました」
写真は机の中央へ置かれた。
「この子供たちにとって、戦争は国境線や権益の問題ではありません。昨日まであった家が、今日なくなっている。それが戦争です」
昭和日本の代表団は黙った。
宋は続けた。
「中国政府は、和平を拒否しません。しかし、侵略された側が、侵略した側に対して撤退をお願いするという形の交渉には応じられません」
その言葉が通訳されると、昭和日本側の一人が顔をしかめた。
「侵略という表現は受け入れ難い」
宋は、その男を見た。
「それでは、何と呼べばよろしいのですか」
会議室の空気が重くなった。
榊原は、すぐには口を挟まなかった。
歴史を知っているという理由で、昭和日本の代表に答えを押しつけることはできる。しかし、それで交渉が成立するとは思えなかった。
やがて、真壁宗一郎が発言を求めた。
昭和日本代表団の軍事顧問として出席していた彼は、軍服の襟を正して立ち上がった。
「宋先生」
通訳が中国語に訳すのを待った。
「日本軍の行動によって、多くの中国人が命を失ったことは事実です」
昭和日本側の席で、何人かが真壁を見た。
「私は、軍人としてその責任を軽く考えるべきではないと思っています」
真壁は言葉を選んだ。
「ただし、私は帝国政府の全権代表ではありません。ここで撤退を約束する権限も持っておりません」
宋は頷いた。
「分かっています」
「それでも、戦闘を止めるための手順についてなら、具体的な話ができるはずです」
真壁は、机の上に地図を広げた。
華北、華中、華南に分けられた軍の配置図だった。
「どの部隊が、どの地域から、どの順序で移動するのか。撤退する部隊を誰が監視するのか。撤退後、住民の安全を誰が守るのか」
真壁は顔を上げた。
「これらを決めずに、明日から撤退せよと命じれば、かえって多くの人間が死ぬ可能性があります」
宋は地図を見た。
「それは、撤退を遅らせる理由にも使えますね」
「その通りです」
真壁は即答した。
宋がわずかに眉を上げた。
「だからこそ、期限と監視の仕組みが必要だと考えます」
しばらく沈黙が続いた。
周恩来が、初めて口を開いた。
「私は、真壁大佐の意見に一部賛成します」
その声は低く、落ち着いていた。
「ただし、撤退する日本軍だけでなく、その地域に残る中国人についても考える必要があります」
周は地図の華北地方を指した。
「日本軍が退いたあと、国民政府軍と共産党軍が同じ地域へ進出すれば、何が起こるでしょうか」
宋は、周を見た。
「中国国内の問題は、中国政府が処理します」
「それでは、答えになりません」
「周先生。あなた方は国民政府の指揮下にあるはずです」
周は、かすかに笑った。
「書類の上では、そういうことになっています」
榊原は二人の顔を見比べた。
日本軍が撤退すれば、日中戦争が終わる。
それだけなら、話は単純だった。
しかし、中国にはすでに二つの軍事勢力があり、両者の対立は日本との戦争が始まる前から続いていた。
日本軍の撤退は、平和をもたらすと同時に、新しい戦争の空白地帯を生み出しかねない。
榊原は、手元の資料に目を落とした。
そこには、未来日本の歴史が記されている。
一九四五年、日本の敗北。
一九四六年、国共内戦の全面化。
一九四九年、中華人民共和国成立。
その歴史を知っているのは、もはや榊原だけではなかった。
宋も、周も、少なくとも概要を知らされている。
知っているからこそ、互いを信用できなくなっているのかもしれなかった。




