十 消えかけた写真
一月十五日。
榊原直人は、官邸の執務室で古い家族写真を見ていた。
写真には、若い頃の父が写っていた。
昭和二十一年生まれ。
戦後の混乱の中で育ち、高度経済成長期に働き、家庭を築いた人だった。
榊原は、父から何度も戦後の話を聞いていた。
食べ物が少なかったこと。
学校へ通うために長い道を歩いたこと。
初めてテレビを買った日のこと。
そして、戦争を経験した祖父母が、戦争の話をほとんどしなかったこと。
父は、数年前に亡くなっていた。
榊原は、写真を見つめた。
しかし、何かがおかしかった。
父の顔が、以前より薄くなっているように見えた。
最初は、写真の劣化だと思った。
しかし、他の人物は鮮明だった。
母も、自分も、兄も。
父だけが、わずかにぼやけていた。
榊原は、写真を机の上に置いた。
そして、スマートフォンに保存していた同じ写真を開いた。
そこでも、父の顔が不自然にぼやけていた。
榊原は、しばらく画面を見つめた。
時空間異常の発生以降、未来日本では奇妙な現象が報告されていた。
古い記録が変化する。
写真の一部が消える。
人々の記憶と、公的な記録が一致しなくなる。
政府は、原因を調査していた。
しかし、まだ結論は出ていない。
榊原は、写真を手に取った。
もし、昭和日本が戦争を回避したら。
もし、父が生まれるはずだった時代の出来事が変わったら。
父は、生まれなくなるのだろうか。
では、自分はどうなる。
榊原は、椅子に深く腰を下ろした。
首相として、戦争を避けるために行動してきた。
しかし、その結果、自分の父が存在しなくなるかもしれない。
その可能性を、初めて現実のものとして感じた。
榊原は、写真を机の引き出しへ入れた。
そして、しばらく目を閉じた。
父の声は、まだ覚えていた。
顔も、思い出せた。
しかし、いつまで覚えていられるのだろう。
そのことが、何よりも恐ろしかった。




