↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昭和十六年の日本国  作者: 秋雲 榛名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
52/161

第五章 奪われた未来  一 帰らなかった男


三浦隆文が帰宅しなかったのは、十二月十九日の木曜日だった。

 妻の由紀子が異変に気づいたのは、午後九時を過ぎてからである。

 普段なら、遅くなる日は必ず連絡を寄越す男だった。研究室に泊まり込むことは珍しくなかったが、その場合も「今日は帰れない。冷蔵庫のものを食べてくれ」と、ひどく事務的な文面を送ってくる。結婚して十八年、夫が何も告げずに外泊したことは一度もない。

 もっとも、世の中が八十五年前へ移ってしまった現在、携帯電話がつながるからといって安心できるわけではなかった。通信網そのものは国内で維持されているものの、各地で停電や設備障害が起き、連絡が取れなくなることも増えていた。

 由紀子は最初、そのせいだろうと思った。

 午後十時になると、研究所へ電話した。

「三浦先生でしたら、夕方にはお帰りになりましたが」

 電話口の若い女性は、少し困ったように答えた。

「何時頃でしょうか」

「五時半過ぎだったと思います。確か、お客様がお見えになって……」

「お客様?」

「はい。お二人でした。先生とお話しされて、そのあと一緒にお出かけになったようです」

 由紀子は、受話器を握り直した。

「どんな方でしたか」

「お一人は、軍服のようなものを着ていらっしゃいました」

 その瞬間、由紀子は夫が前夜に口にした言葉を思い出した。

 食卓で、隆文は味噌汁をすすりながら、こんなことを言ったのだった。

「妙な問い合わせが来ているんだ」

「仕事の?」

「そう。昔の飛行機のエンジンについて、意見を聞きたいって」

「昔って、どのくらい?」

「戦争中のだよ」

 由紀子は笑った。

「今は本当に戦争中でしょう」

「そうだったな」

 隆文も笑ったが、すぐに黙った。

 そのあと、夫は箸を置き、食卓の向こうにいる妻へ何かを言いかけた。しかし結局、「いや、何でもない」と首を振っただけだった。

 あのとき、もう少し詳しく聞いておけばよかった。

 由紀子は受話器を置き、玄関へ向かった。

 夫の革靴は、まだ戻っていなかった。

 靴箱の上には、先週買ったばかりの小さな卓上カレンダーが置いてある。十二月の予定には、隆文の几帳面な字で「健康診断」「会議」「由紀子誕生日」と書かれていた。

 誕生日は、三日後だった。

 由紀子は、その文字を見てから警察へ電話した。

 警察官に事情を説明しているうちに、時計は午後十一時を回った。

 窓の外では、近所の家々が次々と明かりを消していた。

 政府の節電要請が始まってから、夜の住宅街は以前よりずっと暗い。

 由紀子は、夫の携帯電話へもう一度かけた。

 呼び出し音は鳴らなかった。

 機械的な声が、電源が入っていないことを告げた。

 その声を聞いたとき、由紀子は初めて、夫が自分の意思では帰ってこないのかもしれないと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。