第五章 奪われた未来 一 帰らなかった男
三浦隆文が帰宅しなかったのは、十二月十九日の木曜日だった。
妻の由紀子が異変に気づいたのは、午後九時を過ぎてからである。
普段なら、遅くなる日は必ず連絡を寄越す男だった。研究室に泊まり込むことは珍しくなかったが、その場合も「今日は帰れない。冷蔵庫のものを食べてくれ」と、ひどく事務的な文面を送ってくる。結婚して十八年、夫が何も告げずに外泊したことは一度もない。
もっとも、世の中が八十五年前へ移ってしまった現在、携帯電話がつながるからといって安心できるわけではなかった。通信網そのものは国内で維持されているものの、各地で停電や設備障害が起き、連絡が取れなくなることも増えていた。
由紀子は最初、そのせいだろうと思った。
午後十時になると、研究所へ電話した。
「三浦先生でしたら、夕方にはお帰りになりましたが」
電話口の若い女性は、少し困ったように答えた。
「何時頃でしょうか」
「五時半過ぎだったと思います。確か、お客様がお見えになって……」
「お客様?」
「はい。お二人でした。先生とお話しされて、そのあと一緒にお出かけになったようです」
由紀子は、受話器を握り直した。
「どんな方でしたか」
「お一人は、軍服のようなものを着ていらっしゃいました」
その瞬間、由紀子は夫が前夜に口にした言葉を思い出した。
食卓で、隆文は味噌汁をすすりながら、こんなことを言ったのだった。
「妙な問い合わせが来ているんだ」
「仕事の?」
「そう。昔の飛行機のエンジンについて、意見を聞きたいって」
「昔って、どのくらい?」
「戦争中のだよ」
由紀子は笑った。
「今は本当に戦争中でしょう」
「そうだったな」
隆文も笑ったが、すぐに黙った。
そのあと、夫は箸を置き、食卓の向こうにいる妻へ何かを言いかけた。しかし結局、「いや、何でもない」と首を振っただけだった。
あのとき、もう少し詳しく聞いておけばよかった。
由紀子は受話器を置き、玄関へ向かった。
夫の革靴は、まだ戻っていなかった。
靴箱の上には、先週買ったばかりの小さな卓上カレンダーが置いてある。十二月の予定には、隆文の几帳面な字で「健康診断」「会議」「由紀子誕生日」と書かれていた。
誕生日は、三日後だった。
由紀子は、その文字を見てから警察へ電話した。
警察官に事情を説明しているうちに、時計は午後十一時を回った。
窓の外では、近所の家々が次々と明かりを消していた。
政府の節電要請が始まってから、夜の住宅街は以前よりずっと暗い。
由紀子は、夫の携帯電話へもう一度かけた。
呼び出し音は鳴らなかった。
機械的な声が、電源が入っていないことを告げた。
その声を聞いたとき、由紀子は初めて、夫が自分の意思では帰ってこないのかもしれないと思った。




