四 ハル国務長官
会談は、午前十時に始まった。
米国側の代表、コーデル・ハル国務長官は、榊原を慎重な態度で迎えた。
高齢の外交官らしく、動作はゆっくりしていたが、眼差しには鋭さがあった。
「あなた方の存在は、我々にとって理解しがたいものです」
ハルは、通訳を介して言った。
「しかし、現にここにおられる以上、無視することもできません」
榊原は頷いた。
「我々も、同じように困惑しています」
「あなた方は、一九四一年の日本とは異なる政府であると」
「はい」
「しかし、日本人である」
「その通りです」
ハルは、机の上の資料を指した。
「そして、我々に戦争を避けるよう求めている」
「はい」
「なぜです」
榊原は、少し考えた。
「私たちの歴史では、日本と米国は戦争をしました」
ハルの表情は変わらなかった。
「結果は」
「日本の敗北です」
室内が静かになった。
ハルは、しばらく榊原を見つめていた。
「その戦争で、米国は勝利したのですか」
「軍事的には、そうです」
「軍事的には?」
「勝利した国にも、大きな犠牲がありました」
ハルは、机に置いた手を組み直した。
「どの程度の犠牲です」
榊原は、すぐには答えなかった。
戦争による死者の数。
負傷者。
失われた都市。
戦後の占領。
そして、原子爆弾。
それらをすべて説明するには、あまりにも多くの時間が必要だった。
「日米双方で、数え切れないほどの人命が失われました」
榊原は答えた。
ハルは眉をひそめた。
「数え切れない、では外交上の説明になりません」
「承知しています」
「具体的な資料を提示していただきたい」
榊原は頷いた。
「民間人の犠牲も含め、確認できる資料を提供します」
ハルは、少し間を置いて言った。
「では、質問を変えましょう」
「どうぞ」
「あなた方の日本は、米国とどのような関係にありますか」
榊原は、ハルを見た。
「同盟国です」
ハルは、初めて表情を変えた。
「同盟国?」
「はい」
「日本と米国が?」
「そうです」
ハルは、隣に座る米軍高官を見た。
高官も驚いた顔をしていた。
「それは、軍事同盟ですか」
「安全保障条約に基づく同盟関係です」
ハルは、しばらく黙っていた。
「興味深い」
そして、ゆっくりと言った。
「では、あなた方は米国の敵ではない」
「少なくとも、私たちの時代では」
「しかし、今の米国にとっては、まだ分かりません」
榊原は頷いた。
「その通りです」
ハルは、少しだけ笑った。
「あなたは、率直な方のようだ」
「率直でなければ、信用していただけないと思っています」
「率直であることと、すべてを話すことは違いますよ」
榊原は、その言葉に答えなかった。
ハルは続けた。
「あなた方が未来を知っているというのなら、我々は知りたいことが山ほどあります」
「承知しています」
「しかし、あなた方は、すべてを教えるつもりはない」
「はい」
「それは、我々を信用していないからですか」
榊原は、少し考えた。
「信用していないのではありません」
「では?」
「未来の知識を渡すことが、必ずしも人々を救うとは限らないからです」
ハルは、しばらく榊原を見つめた。
「外交官としては、実に困った答えですな」
榊原は苦笑した。
「申し訳ありません」
「しかし、理解できなくもない」
ハルは、資料を閉じた。
「では、まず現在の問題から話しましょう」




