第四章 真珠湾の沈黙 一 十二月十四日の雨
東京には、朝から冷たい雨が降っていた。
真壁宗一郎は、陸軍省の玄関で外套の襟を立て、車寄せに停まっている黒塗りの乗用車へ歩いた。運転手が扉を開けようとしたが、真壁は片手で制した。
「歩いて帰る」
「しかし、大佐殿。この雨では」
「構わん。車は戻しておけ」
運転手は困った顔をしたものの、それ以上は言わなかった。
真壁は帽子を深くかぶり、濡れた歩道へ出た。
十二月十四日。日曜日だった。
平時なら官庁街も多少は静かなはずだが、陸軍省と参謀本部では曜日の区別がなくなっていた。対米開戦延期から六日。軍の内部では、毎日のように会議が開かれ、電報が飛び交い、責任の所在を問う声が上がっている。
真壁は午前中、若手将校たちの意見書を読まされていた。
その多くは、未来日本の出現を国難と捉えていた。
対米開戦を中止したことは帝国の威信を損なう。
未来日本は米英の思想に染まった別国家であり、その助言に従うことは屈服に等しい。
昭和十六年の日本は、未来の日本とは異なる道を歩むべきである。
真壁は、最後の一文だけには頷くところがあった。
異なる道を歩むべきだ。
確かにそうだろう。
しかし、その道が再び戦争へ向かうのであれば、未来を知った意味がない。
雨に濡れた路面を路面電車が通り過ぎた。窓には乗客の顔が並び、車内灯がぼんやりと浮かんでいた。
真壁は、神田の交差点で足を止めた。
新聞売りの少年が、軒先で声を張り上げている。
「号外! 号外! 米国、未来日本との会談に応ず!」
数人の男が集まり、新聞を買っていた。
「アメリカも未来日本と話をするのか」
「そりゃそうだろう。あんな飛行機を持っているんだから」
「で、帝国はどうなる」
「知らんよ。新聞にも書いてない」
真壁は、その会話を聞きながら歩き出した。
帝国はどうなる。
今、最も答えの出ない問いだった。
軍人としての真壁には、国家が守るべき秩序というものがあった。天皇を中心とする国体、軍の統制、官僚機構、そして国民が長い年月をかけて築いてきた社会。それらが突然現れた未来日本によって否定されることを、彼も望んではいない。
しかし、守るべきものを守るために、何を変えなければならないのか。
その判断を誤れば、未来日本の記録にある焼け野原の東京が、別の形で現実になる。
真壁は、外套の内側から小さな封筒を取り出した。
今朝、机の上に置かれていたものだった。
差出人の名はない。
中には、一枚の紙が入っていた。
『未来の亡霊に帝国を売る者は、いずれ国賊として裁かれる』
筆跡は乱れていたが、書いた者の怒りだけは十分に伝わってきた。
真壁は紙を折り、封筒へ戻した。
脅迫状を受け取ったのは、これが初めてではなかった。
だが、今回のものには奇妙なことがあった。
封筒の裏に、八咫烏の紋が小さく描かれていたのである。
真壁には、その意味が分からなかった。
ただ、気にかかった。




