第三章 ふたつの祖国 一 石油の値段
十二月九日の朝、榊原直人は、官邸の執務室で冷めたコーヒーを飲んでいた。
窓の外には、普段と変わらない東京が広がっている。皇居の森は冬の薄い光を受け、首都高速には車が列をつくっていた。霞が関の庁舎では、いつものように職員たちが出勤している。テレビを消してしまえば、この国が八十五年前の世界に取り残されているなど、誰も信じないだろう。
だが、机に積まれた報告書は、その現実を容赦なく突きつけていた。
「国内の石油備蓄は、直ちに枯渇する水準ではありません」
経済産業大臣はそう切り出した。
「ただし、それは通常の消費が続き、海外からの補給が再開することを前提にした制度です。現在、その前提が消えています」
榊原は報告書を開いた。
製油所の稼働状況、港湾の在庫、備蓄基地の残量、発電所の燃料確保状況。数字が細かく並んでいたが、最も重要な欄には、どれも同じ言葉が記されていた。
供給再開時期、不明。
「節約すれば、どの程度もつんですか」
「石油だけを見れば、相応の期間は確保できます。ただし、油種や用途によって事情が違います。航空燃料、軽油、重油を自由に融通できるわけではありません」
「天然ガスは」
「石油より厳しい部分があります。発電構成を変える必要があるでしょう」
「原子力発電所は?」
「稼働可能な設備については、安全性を確認しながら対応を検討しています。ただ、発電所を動かせばすべて解決するわけではありません。輸送用燃料も、化学工業の原料も必要です」
榊原は窓の外に目を向けた。
道路を走る車が、急に奇妙なものに見えた。
あれほど多くの車が、毎日何の疑問もなく走っている。ガソリンスタンドへ行けば燃料が買え、店へ行けば食品が並び、夜になれば街に明かりが灯る。誰もが当たり前だと思っていたその生活は、海の向こうから絶えず物資が届くことによって成り立っていた。
そして今、その海の向こうには、タンカーを待っている産油国も、半導体を製造する海外工場も存在しない。
少なくとも、二〇二六年の日本が取引していた相手は、どこにもいなかった。
「国民に、いつ説明しますか」
官房長官が尋ねた。
榊原はカップを置いた。
「今日中に、具体的な見通しを出したい」
「買いだめが起きます」
「説明しなければ、もっと悪いことになる」
「説明しても起きます」
「それでもです」
経済産業大臣が資料を一枚差し出した。
「もう一つ、問題があります」
そこには国内企業の生産停止見込みがまとめられていた。
自動車、電子機器、医薬品、化学製品、食品加工。分野は違っても、海外から原材料や部品を調達しているという点では同じだった。
「輸入が再開しなければ、早い企業では数日から数週間で一部の生産ラインが止まります」
「雇用は」
「相当な影響が出ます」
榊原は、資料を閉じた。
真珠湾攻撃を止めた。
それは確かに、一つの成果だった。
しかし、戦争を止めたからといって、国民の生活が守られるわけではない。
昭和日本を救おうとした未来日本が、自分自身を支えられなくなりつつある。
榊原は、初めてその事実を恐ろしく感じた。




