十 祖父のいない写真
護衛艦の医務室で、片桐修一は目を覚ました。
白い天井。
明るい照明。
聞き慣れない機械の音。
自分がどこにいるのか分からなかった。
右脚には固定具が取りつけられていた。
腕には細い管がつながっている。
「気がつきましたか」
女性の声がした。
片桐は顔を向けた。
白衣を着た女性が立っていた。
三十歳くらいだろうか。
髪を後ろでまとめ、胸には名札がついている。
「ここは」
片桐が尋ねた。
「海上自衛隊の護衛艦です」
「海上……何ですか」
女性は少し困ったように笑った。
「説明すると長くなるんですが、あなたを救助した船です」
片桐は、ゆっくり頷いた。
「助けていただいたんですか」
「はい」
「ありがとうございます」
女性は首を振った。
「仕事ですから」
片桐は、周囲を見回した。
医務室には、見たことのない医療機器が並んでいた。
女性が言った。
「痛みはありますか」
「少し」
「我慢しなくていいですよ」
片桐は、その言葉に驚いた。
軍隊では、痛みを我慢することが当たり前だった。
女性は薬の準備をしながら、尋ねた。
「お名前をもう一度教えていただけますか」
「片桐修一。海軍飛行兵曹長です」
女性の手が止まった。
「片桐……修一?」
「はい」
女性は、片桐の顔を見つめた。
「新潟のご出身ですか」
片桐は驚いた。
「どうして分かるんです」
女性は答えなかった。
しばらくして、胸元からスマートフォンを取り出した。
画面を操作する。
一枚の古い写真が表示された。
軍服を着た若い男。
片桐は、その写真を見た瞬間、息を呑んだ。
自分だった。
「これは」
女性は、少し震える声で言った。
「私の曾祖母が、大切にしていた写真です」
片桐は女性を見た。
「曾祖母?」
「はい」
女性は、写真の男を指した。
「片桐修一さん。昭和十六年十二月八日、北太平洋で戦死」
片桐は、何も言えなかった。
女性は続けた。
「曾祖母の婚約者だったそうです」
片桐は、写真を見つめた。
婚約者。
新潟に残してきた娘の顔が浮かんだ。
幼なじみの千代。
春になったら結婚する約束だった。
「千代は」
片桐の声がかすれた。
「千代は、どうなったんですか」
女性は、しばらく答えなかった。
「戦後、別の方と結婚しました」
片桐は目を閉じた。
「そうですか」
「でも、あなたの写真をずっと持っていたそうです」
片桐は、もう一度画面を見た。
写真の中の自分は、笑っていた。
撮影した日のことを覚えている。
出征前、千代の家で撮った写真だった。
千代の父親が、古い写真機を持ち出してきた。
片桐は緊張して、うまく笑えなかった。
千代が横で笑った。
「そんな顔じゃ、兵隊さんに見えないよ」
その言葉を思い出した。
片桐は、女性を見た。
「あなたは」
「はい」
「千代の……」
「曾孫です」
片桐は、しばらく黙っていた。
自分が死んだ後の千代。
別の男と結婚した千代。
子供を産み、孫が生まれ、曾孫が生まれた千代。
その曾孫が、今、自分を助けてくれた。
「そうですか」
片桐は、もう一度言った。
女性は、少し不安そうに尋ねた。
「大丈夫ですか」
片桐は頷いた。
「はい」
そして、静かに笑った。
「千代は、幸せだったんですね」
女性は目を伏せた。
「そうだったと思います」
片桐は天井を見た。
不思議な気持ちだった。
自分が死んだ未来に、千代は生きていた。
自分が死んだからこそ、生まれた人々がいる。
では、自分が生き残ったら、どうなるのだろう。
千代は自分と結婚するかもしれない。
そうなれば、目の前の女性は生まれないかもしれない。
片桐は、急に怖くなった。
死ぬことよりも、もっと奇妙な恐怖だった。
彼は、女性の顔を見た。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「私は、生きていてもいいんでしょうか」
女性は驚いたように目を見開いた。
片桐は、困ったように笑った。
「変なことを聞きました」
女性は首を振った。
そして、片桐の手を握った。
「生きてください」
その声は、はっきりしていた。
「絶対に、生きてください」
片桐は、しばらく女性を見つめた。
やがて、小さく頷いた。
「はい」
彼は、初めて自分の命が、未来の誰かにとっても大切なものなのだと知った。




