第十二章 鴨緑江の向こう側
一 六月の国境
昭和十七年六月五日、午前五時四十分
満洲国と朝鮮を隔てる鴨緑江には、朝靄が低く垂れ込めていた。
安東の駅を出た貨物列車は、長い鉄橋へ差しかかる前に速度を落とした。機関車の吐き出す煙が川霧に混じり、後ろへ流れていく。橋の両端には歩哨が立ち、鉄道警備の兵士が通過する車両を数えていた。
貨車の一つに、黒い革鞄を抱えたドイツ人が乗っていた。
フリードリヒ・クラウスは、木箱に背を預けて目を閉じていた。右足の痛みは、まだ引いていない。五月の茨城での逃走以来、歩くたびに足首が鈍く疼いた。医者に診せることもできず、包帯を巻き直しては移動を続けていた。
貨車の床は硬く、車輪が継ぎ目を越えるたびに背骨へ振動が伝わった。
向かいに座る日本軍の少尉が、煙草を差し出した。
「吸いますか」
クラウスは首を振った。
「結構です」
少尉は自分の煙草に火をつけた。
「博士は、朝鮮へ行くのは初めてですか」
「二度目です」
「前は?」
「京城へ行きました。工場の視察で」
少尉は煙を吐いた。
「今回も工場ですか」
クラウスは目を開けた。
「そう聞かされているのでしょう」
少尉の顔から笑みが消えた。
「余計なことを聞きました」
「いいえ」
クラウスは窓の外を見た。
川の向こうに、朝鮮側の山並みが見え始めていた。
貨車に積まれている木箱には、工作機械の部品、計測器、書類の束が入っている。どれも単独では珍しくない品物だった。しかし、書類の中には未来日本から流出した資料の写しが含まれていた。
クラウス自身、それらがどれほど役に立つのか確信していなかった。
二十一世紀の技術資料には、理解できない用語が多すぎた。材料の名称だけが分かっても、その材料を作る設備がない。測定方法を知っても、必要な精度の装置がない。現代の研究所なら数日で済む分析に、昭和十七年の工場では何か月もかかる。
それでも、研究をやめるつもりはなかった。
ドイツは戦争を続けている。ベルリンからは成果を求める電報が繰り返し届いていた。
クラウスは、鞄の中にある一枚の写真を思い出した。
未来日本の資料に収められていた、一九四五年のベルリン。
瓦礫に埋もれた街路。焼け落ちた建物。廃墟となった国会議事堂。
自分が知っている街が、そこにはなかった。
あの光景を防ぐことができるなら、どこまで許されるのか。
その問いを、彼は考えないようにしていた。
列車が橋へ進入した。
車輪の音が変わった。鉄骨の間から、濁った川面が見えた。
少尉が窓を閉めた。
「もうすぐ新義州です」
クラウスは鞄を膝に載せた。
国境を越えたところで、追手から逃れられる保証はなかった。朝鮮も日本の統治下にあり、東京が本気で動けば、どこにも安全な場所はない。
だが、東京には別の問題が山積していた。
中国との停戦。ドイツとの外交。未来日本との協力。
その隙間に、自分たちが活動できる時間がある。
クラウスは、そう考えていた。




