↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昭和十六年の日本国  作者: 秋雲 榛名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
165/166

第十二章 鴨緑江の向こう側


  一 六月の国境


 昭和十七年六月五日、午前五時四十分


 満洲国と朝鮮を隔てる鴨緑江には、朝靄が低く垂れ込めていた。

安東の駅を出た貨物列車は、長い鉄橋へ差しかかる前に速度を落とした。機関車の吐き出す煙が川霧に混じり、後ろへ流れていく。橋の両端には歩哨が立ち、鉄道警備の兵士が通過する車両を数えていた。

貨車の一つに、黒い革鞄を抱えたドイツ人が乗っていた。

フリードリヒ・クラウスは、木箱に背を預けて目を閉じていた。右足の痛みは、まだ引いていない。五月の茨城での逃走以来、歩くたびに足首が鈍く疼いた。医者に診せることもできず、包帯を巻き直しては移動を続けていた。

貨車の床は硬く、車輪が継ぎ目を越えるたびに背骨へ振動が伝わった。

向かいに座る日本軍の少尉が、煙草を差し出した。

「吸いますか」

クラウスは首を振った。

「結構です」

少尉は自分の煙草に火をつけた。

「博士は、朝鮮へ行くのは初めてですか」

「二度目です」

「前は?」

「京城へ行きました。工場の視察で」

少尉は煙を吐いた。

「今回も工場ですか」

クラウスは目を開けた。

「そう聞かされているのでしょう」

少尉の顔から笑みが消えた。

「余計なことを聞きました」

「いいえ」

クラウスは窓の外を見た。

川の向こうに、朝鮮側の山並みが見え始めていた。

貨車に積まれている木箱には、工作機械の部品、計測器、書類の束が入っている。どれも単独では珍しくない品物だった。しかし、書類の中には未来日本から流出した資料の写しが含まれていた。

クラウス自身、それらがどれほど役に立つのか確信していなかった。

二十一世紀の技術資料には、理解できない用語が多すぎた。材料の名称だけが分かっても、その材料を作る設備がない。測定方法を知っても、必要な精度の装置がない。現代の研究所なら数日で済む分析に、昭和十七年の工場では何か月もかかる。

それでも、研究をやめるつもりはなかった。

ドイツは戦争を続けている。ベルリンからは成果を求める電報が繰り返し届いていた。

クラウスは、鞄の中にある一枚の写真を思い出した。

未来日本の資料に収められていた、一九四五年のベルリン。

瓦礫に埋もれた街路。焼け落ちた建物。廃墟となった国会議事堂。

自分が知っている街が、そこにはなかった。

あの光景を防ぐことができるなら、どこまで許されるのか。

その問いを、彼は考えないようにしていた。

列車が橋へ進入した。

車輪の音が変わった。鉄骨の間から、濁った川面が見えた。

少尉が窓を閉めた。

「もうすぐ新義州です」

クラウスは鞄を膝に載せた。

国境を越えたところで、追手から逃れられる保証はなかった。朝鮮も日本の統治下にあり、東京が本気で動けば、どこにも安全な場所はない。

だが、東京には別の問題が山積していた。

中国との停戦。ドイツとの外交。未来日本との協力。

その隙間に、自分たちが活動できる時間がある。

クラウスは、そう考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。