↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
昭和十六年の日本国  作者: 秋雲 榛名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
166/166

二 京城の女


 同日、午前十時十五分。朝鮮・京城。


 金順姫は、印刷所の裏口で新聞の束を受け取っていた。

二十七歳。京城の商業学校を出たあと、父の知人が営む印刷所で働いている。帳簿をつけ、活字を整理し、時には配達にも出た。

日本語の読み書きは不自由しなかった。学校で習ったからというだけではない。役所の書類も、商売の伝票も、日本語を読めなければ仕事にならなかった。

しかし、家では朝鮮語を話した。

母は、日本語をほとんど使わなかった。

「順姫」

奥から主人が呼んだ。

「はい」

「これを京城駅の近くまで届けてくれ」

渡されたのは、厚い封筒だった。

宛名には、日本人の名前が書かれていた。

「軍の方ですか」

「そうらしい」

主人は、それ以上説明しなかった。

順姫は封筒を鞄へ入れ、印刷所を出た。

通りには路面電車が走り、商店の軒先では店員が品物を並べていた。市場へ向かう女たちが籠を抱え、学生服の少年が自転車で走り抜ける。

街は、いつもと変わらないように見えた。

しかし、最近は妙な噂が増えていた。

未来から来た日本があるという。

その日本には、朝鮮を統治する総督府がないという。

朝鮮半島は、南と北に分かれているという。

順姫は、最初その話を信じなかった。

だが、未来日本の新聞の写しを見せられたとき、冗談ではないと分かった。

新聞には、見たことのない街の写真が載っていた。

高層建築、巨大な橋、夜でも昼のように明るい道路。

そして、朝鮮半島についての記事。

未来の朝鮮は日本の統治から離れる。しかし、独立した一つの国にはならず、南北に分断される。

やがて戦争が起こり、多くの人が死ぬ。

順姫は、その記事を何度も読んだ。

日本の支配が終わることを、喜んではいけないのだろうか。

それとも、その先に待っている戦争を恐れるべきなのだろうか。

答えは出なかった。

駅前の建物へ着くと、入口には軍服姿の男が立っていた。

順姫は封筒を差し出した。

「印刷所から参りました」

男は宛名を確認した。

「少し待て」

奥へ消えた男が戻ってくるまで、順姫は廊下に立っていた。

そのとき、開いた扉の向こうに、木箱がいくつも積まれているのが見えた。

箱にはドイツ語らしい文字が書かれていた。

一つだけ、墨で描かれた印がある。

三本の足を持つ烏だった。

順姫は、その印を見たことがあった。

数日前、印刷所に持ち込まれた書類の端にも、同じ絵があった。

主人は、それを見たとき急に顔色を変え、順姫へ活字を片づけるよう命じた。

「おい」

軍服の男が戻ってきた。

「何を見ている」

順姫は目を伏せた。

「何も」

男は封筒の受領書を渡した。

「帰っていい」

順姫は頭を下げ、建物を出た。

外へ出ると、日差しが強くなっていた。

彼女は受領書を鞄へしまった。

烏の印が、頭から離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。