二 京城の女
同日、午前十時十五分。朝鮮・京城。
金順姫は、印刷所の裏口で新聞の束を受け取っていた。
二十七歳。京城の商業学校を出たあと、父の知人が営む印刷所で働いている。帳簿をつけ、活字を整理し、時には配達にも出た。
日本語の読み書きは不自由しなかった。学校で習ったからというだけではない。役所の書類も、商売の伝票も、日本語を読めなければ仕事にならなかった。
しかし、家では朝鮮語を話した。
母は、日本語をほとんど使わなかった。
「順姫」
奥から主人が呼んだ。
「はい」
「これを京城駅の近くまで届けてくれ」
渡されたのは、厚い封筒だった。
宛名には、日本人の名前が書かれていた。
「軍の方ですか」
「そうらしい」
主人は、それ以上説明しなかった。
順姫は封筒を鞄へ入れ、印刷所を出た。
通りには路面電車が走り、商店の軒先では店員が品物を並べていた。市場へ向かう女たちが籠を抱え、学生服の少年が自転車で走り抜ける。
街は、いつもと変わらないように見えた。
しかし、最近は妙な噂が増えていた。
未来から来た日本があるという。
その日本には、朝鮮を統治する総督府がないという。
朝鮮半島は、南と北に分かれているという。
順姫は、最初その話を信じなかった。
だが、未来日本の新聞の写しを見せられたとき、冗談ではないと分かった。
新聞には、見たことのない街の写真が載っていた。
高層建築、巨大な橋、夜でも昼のように明るい道路。
そして、朝鮮半島についての記事。
未来の朝鮮は日本の統治から離れる。しかし、独立した一つの国にはならず、南北に分断される。
やがて戦争が起こり、多くの人が死ぬ。
順姫は、その記事を何度も読んだ。
日本の支配が終わることを、喜んではいけないのだろうか。
それとも、その先に待っている戦争を恐れるべきなのだろうか。
答えは出なかった。
駅前の建物へ着くと、入口には軍服姿の男が立っていた。
順姫は封筒を差し出した。
「印刷所から参りました」
男は宛名を確認した。
「少し待て」
奥へ消えた男が戻ってくるまで、順姫は廊下に立っていた。
そのとき、開いた扉の向こうに、木箱がいくつも積まれているのが見えた。
箱にはドイツ語らしい文字が書かれていた。
一つだけ、墨で描かれた印がある。
三本の足を持つ烏だった。
順姫は、その印を見たことがあった。
数日前、印刷所に持ち込まれた書類の端にも、同じ絵があった。
主人は、それを見たとき急に顔色を変え、順姫へ活字を片づけるよう命じた。
「おい」
軍服の男が戻ってきた。
「何を見ている」
順姫は目を伏せた。
「何も」
男は封筒の受領書を渡した。
「帰っていい」
順姫は頭を下げ、建物を出た。
外へ出ると、日差しが強くなっていた。
彼女は受領書を鞄へしまった。
烏の印が、頭から離れなかった。




