十 満洲の列車
五月二十一日、満洲国・奉天。
貨物列車が、夜明け前の駅へ入ってきた。
駅の周囲には、軍服姿の男たちが立っていた。
その中に、フリードリヒ・クラウスの姿があった。
彼は、灰色の外套を着ていた。
右足を少し引きずりながら歩いている。
茨城県の研究所から逃走したあと、協力者の手引きで昭和日本側へ移動し、さらに満洲へ渡っていた。
クラウスは、駅の片隅で待っていた男へ近づいた。
男は、関東軍の軍服を着ていた。
「遅かったな」
男が言った。
「途中で、少し問題がありまして」
クラウスは答えた。
「資料は?」
男は、鞄を見た。
クラウスは首を振った。
「必要なものは、手に入りませんでした」
男の表情が変わった。
「失敗したのか」
「そういうことになります」
男は、舌打ちした。
「野村大佐は、何と言うだろうな」
クラウスは、少し笑った。
「野村大佐は、まだ拘束されているのでしょう」
男は黙った。
クラウスは続けた。
「計画を続けるつもりなら、別の方法を考える必要があります」
「どんな方法だ」
クラウスは、駅の向こうに停まっている貨物列車を見た。
「研究資料を持っているのは、未来日本だけではありません」
男は、顔を上げた。
「どういう意味だ」
「昭和日本にも、すでに多くの資料が流れています」
クラウスは、静かに答えた。
「それを集めればいい」
男は、しばらく考えた。
「東京が黙っていないぞ」
クラウスは、少し笑った。
「東京に知られなければいい」
男は、クラウスを見た。
「お前は、ドイツのために働いているのか。それとも、自分のためか」
クラウスは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「ドイツのためです」
男は、疑わしそうな顔をした。
クラウスは、貨物列車へ向かった。
列車の中には、木箱が積まれていた。
箱の一つには、八咫烏の印が押されていた。
クラウスは、その印を指でなぞった。
「まだ、終わっていません」
貨物列車が、ゆっくり動き始めた。




