四 名前のない妻
五月十一日、未来日本・埼玉県川越市。
市役所の相談室で、五十代の男が職員に向かって声を荒らげていた。
「だから、妻がいたんです」
男の名前は宮田修司。
地元の印刷会社に勤める会社員だった。
宮田は、机の上に写真を並べた。
結婚式の写真。
家族旅行の写真。
子どもの入学式の写真。
しかし、どの写真にも、妻の姿はなかった。
結婚式の写真には、宮田が一人で立っていた。
隣にいたはずの花嫁が消えている。
「これを見てください」
宮田は、写真を指した。
「ここに妻がいたんです」
職員は、困った顔をした。
「お気持ちは分かりますが」
「分かってないでしょう!」
宮田は、机を叩いた。
職員は、びくりと肩を震わせた。
「すみません」
宮田は、すぐに謝った。
「怒鳴るつもりじゃなかったんです」
彼は、両手で顔を覆った。
妻の名前は、宮田由美子。
昭和五十二年生まれ。
二人は平成十二年に結婚し、翌年には長男が生まれた。
宮田は、妻と過ごした二十年以上の生活を覚えている。
しかし、戸籍には結婚の記録がなかった。
息子の出生記録も変わっていた。
そして、息子自身が母親の存在を覚えていなかった。
「息子に聞いたんです」
宮田は、声を震わせた。
「お母さんはどうしたって」
職員は、黙っていた。
「そしたら、あいつ……」
宮田は、言葉を詰まらせた。
「何言ってるんだって。うちは父子家庭だっただろうって」
相談室には、壁掛け時計の音だけが響いていた。
職員は、しばらくして口を開いた。
「国の専門機関へ、調査を依頼します」
宮田は、顔を上げた。
「妻は、戻ってくるんでしょうか」
職員は、答えられなかった。
宮田は、写真を一枚ずつ封筒へ戻した。
最後に、結婚式の写真を手に取った。
そこには、白い礼服を着た自分だけが写っていた。
しかし、彼には覚えている。
妻が隣で笑っていたことを。
緊張して、指輪を落としそうになったことを。
披露宴のあと、二人で駅まで歩いたことを。
あの日、妻が何を言ったのかまで。
宮田は、写真を胸に抱いた。
「俺だけが、覚えてるんです」
職員は、何も言えなかった。




