第十一章 国境のない戦争
一 割れた窓
昭和十七年五月十日、午前六時二十分。
未来日本・茨城県。
研究所の中庭には、夜明け前に降った雨がまだ残っていた。
小野寺美咲は、建物の外壁を見上げた。三階の窓が一枚割れている。昨夜、フリードリヒ・クラウスが逃走したとされる場所だった。
地面には割れたガラスが散乱し、植え込みの枝が数本折れていた。鑑識の職員が足跡を調べている。
「本当に、ここから飛び降りたんでしょうか」
若い捜査員が言った。
小野寺は答えず、窓から地面までの距離を目で測った。
三階とはいえ、地面まで相当な高さがある。飛び降りて無傷で済むとは考えにくい。
「下を見た人は?」
「突入した警察官が確認しています。窓の外に姿が消えたのは確かですが、落下したところまでは見ていません」
「窓の下には?」
「血痕は見つかっていません」
小野寺は、植え込みの向こうにある細い通路へ目を向けた。
研究棟と別館を結ぶ、職員用の通路だった。
「昨夜、このあたりの監視カメラは?」
「停電の影響で、一部が記録されていません」
「一部?」
「はい」
小野寺は振り返った。
「記録されているものを全部見せてください。停電の前も、復旧したあとも」
捜査員は頷いた。
小野寺は、もう一度割れた窓を見上げた。
クラウスが三階から飛び降りたという説明には、どうにも納得できなかった。
人間は、映画の登場人物のようには動けない。
窓から姿を消したあと、彼はどこへ行ったのか。
研究所の構造を知らなければ、夜間に逃げ道を見つけることは難しい。警備の配置も、停電時の対応も、侵入者が偶然把握できるものではなかった。
つまり、誰かが事前に教えていた可能性がある。
小野寺は、捜査員へ尋ねた。
「研究所の職員名簿は?」
「管理部から受け取っています」
「退職者も含めてください」
「退職者ですか」
「ええ。最近辞めた人だけじゃなく、施設の改修工事に関わった人も」
捜査員は、手帳に書き込んだ。
小野寺は、ポケットから小さな封筒を取り出した。
昨夜の研究室に残されていたものだった。
中には、ドイツ語の短い文章と、三本足の烏を描いた印があった。
八咫烏。
その印を見たとき、彼女は最初、関東軍の秘密研究計画との関係を疑った。
しかし、よく考えれば奇妙だった。
なぜ、侵入者が自分たちの関与を示す印を、わざわざ現場へ残す必要があるのか。
挑発なのか。
それとも、別の誰かに罪を着せようとしているのか。
小野寺は、封筒をしまった。
研究所の正面玄関では、職員たちが警察官に身分証明書を見せていた。
夜が明けても、研究所の日常は戻っていなかった。




