十 消えかけた写真
五月二日、未来日本・東京。
榊原直人は、久しぶりに自宅へ戻っていた。
首相官邸での生活が続き、家族とゆっくり過ごす時間はほとんどなかった。
妻は、夕食の支度をしていた。
「今日は、帰ってこられたのね」
「ああ」
榊原は、上着を脱いだ。
「明日の朝には戻るけど」
妻は、少し笑った。
「それでも、よかった」
食卓には、簡単な料理が並んでいた。
以前なら珍しくもなかった食材が、今では手に入りにくくなっている。
榊原は、箸を取った。
「最近、買い物はどうだ」
妻は、少し考えた。
「大変よ」
「そうか」
「お米も、油も、以前みたいには買えない」
榊原は、黙っていた。
妻は続けた。
「でも、みんな同じだから」
榊原は、少し苦笑した。
「首相の家だからって、特別扱いはできないからな」
「そんなこと、望んでないわ」
妻は、静かに答えた。
食事が終わったあと、榊原は書斎へ入った。
机の上には、父の写真が置かれていた。
以前より、さらに薄くなっている。
顔の輪郭は、ほとんど見えなくなっていた。
榊原は、写真立てを手に取った。
父は、昭和二十一年に生まれた。
史実では、戦争が終わった翌年だった。
しかし、今の昭和日本では、真珠湾攻撃が中止され、中国との停戦交渉が進んでいる。
未来の歴史が変われば、父が生まれなくなる可能性がある。
そのことは、以前から理解していた。
しかし、写真が薄くなっていくのを見ると、理屈だけでは済まなかった。
榊原は、父の声を思い出そうとした。
子どもの頃、叱られたときの声。
大学へ進学するときにかけられた言葉。
政治家になると決めたときの表情。
思い出は、まだ残っていた。
しかし、いつかそれも消えるのだろうか。
榊原は、写真を机へ戻した。
そのとき、携帯電話が鳴った。
官邸からだった。
「総理。緊急のご報告です」
榊原は、電話を耳に当てた。
「何ですか」
「ドイツの情報機関に関する新しい情報が入りました」
「内容は」
「未来日本国内で、技術資料を狙った活動が計画されている可能性があります」
榊原は、目を閉じた。
「分かりました。すぐ戻ります」
電話を切ると、妻が書斎の入口に立っていた。
「また仕事?」
「ああ」
妻は、何も言わなかった。
榊原は、写真立てをもう一度見た。
父の顔は、薄くなっていた。
それでも、そこにいたことだけは、忘れたくなかった。




