五 灯りの消える街
東京では、まだ誰も、石油の残量を気にしていなかった。
十二月七日の夜。
新宿駅の周辺は、いつもどおり混雑していた。
帰宅する会社員。
買い物を終えた家族。
スマートフォンを見ながら歩く学生。
街頭の大型画面には、緊急ニュースが繰り返し流れていた。
『政府は、本日発生した時空間異常について、引き続き調査を進めています』
画面の下には、昭和十六年の東京と現代東京を比較した映像が映っていた。
人々は足を止め、珍しそうに眺めていた。
しかし、しばらくすると歩き始める。
明日も仕事がある。
学校もある。
家賃の支払いもある。
世界が変わったからといって、生活がすぐに止まるわけではなかった。
新宿区の小さなスーパーマーケットで働く高橋美咲は、閉店前の棚を整理していた。
三十四歳。
夫と小学二年生の娘がいる。
夫は都内の運送会社に勤めており、夜勤の日は帰りが遅い。
美咲は、売れ残った弁当を片づけながら、店長の話を聞いていた。
「明日の配送、遅れるかもしれないって」
「どうしてですか」
「燃料の関係らしい」
「燃料?」
「よく分からないけど、輸入が止まってるとか」
美咲は、思わず笑った。
「そんなことあるんですか」
店長は肩をすくめた。
「俺に聞かれてもな」
そのとき、店内の照明が一瞬暗くなった。
冷蔵ケースの音が変わった。
美咲は顔を上げた。
「停電?」
すぐに照明は戻った。
店長が天井を見た。
「珍しいな」
二人は、それ以上気にしなかった。
しかし、同じ頃、国内の複数の発電所では、燃料供給の見通しについて緊急の会議が開かれていた。
液化天然ガス。
原油。
石炭。
日本の発電を支える燃料の多くは、海外から運ばれてくる。
ところが、その海外が消えてしまった。
正確には、現代日本が知っていた海外とのつながりが、突然断ち切られたのである。
備蓄はある。
国内の発電設備も動いている。
だが、燃料が永遠に続くわけではない。
政府は、まだ国民にすべてを説明していなかった。
説明できるだけの情報が、そろっていなかったからだ。
美咲が帰宅すると、娘がテレビを見ていた。
画面には、古い軍艦の映像が映っていた。
「お母さん」
「なあに」
「昔の日本が来たんだって」
「そうみたいね」
「おじいちゃんもいるのかな」
美咲は、靴を脱ぐ手を止めた。
「おじいちゃん?」
「昔のおじいちゃん」
娘は真剣な顔をしていた。
「まだ子供のときのおじいちゃんが、どこかにいるかもしれないんでしょ」
美咲は少し考えた。
自分の祖父は、昭和十六年には十五歳だった。
もし本当にその時代が存在しているのなら、祖父はまだ生きている。
しかも、自分が知っている白髪の老人ではなく、十五歳の少年として。
「いるかもしれないね」
美咲が答えると、娘は嬉しそうに笑った。
「会いたいな」
美咲も笑った。
しかし、すぐに別のことを思い出した。
祖父は戦争に行った。
南方で病気になり、終戦後に帰国した。
戦争の話をほとんどしない人だった。
一度だけ、酔ったときに言ったことがある。
「戦争で一番怖かったのは、死ぬことじゃない。腹が減ることだった」
美咲は、その言葉を思い出した。
テレビでは、昭和日本の軍艦が海を進んでいる。
娘は、その映像を楽しそうに眺めていた。
美咲は何も言わなかった。




