二 横須賀の手紙
四月二十日、未来日本・横須賀。
工藤和也は、朝から台所の蛇口を修理していた。
水を止めても、しばらくするとぽたりと落ちる。妻は数日前から気にしていたが、工藤はそのたびに後回しにしていた。
職務停止になってから、家にいる時間だけは増えた。
ところが、いざ時間ができると、何をしてよいのか分からない。
工具を持つ手が止まったとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
妻が出ると、男の声が聞こえた。
「防衛省の調査担当です。工藤さんはいらっしゃいますか」
工藤は、ゆっくり立ち上がった。
居間に通されたのは、四十代ほどの男性職員だった。以前にも事情聴取で顔を合わせている。
「突然すみません」
「いえ」
「今日は、確認したいことがありまして」
職員は鞄から写真を取り出した。
昭和日本の軍服を着た男が写っていた。
工藤は、その顔を見た瞬間、息を止めた。
「この男に見覚えがありますか」
「あります」
「どこで?」
「久世大佐と会ったときです」
「名前は」
「野村と呼ばれていました」
職員は、写真を机へ置いた。
「野村清隆。関東軍の大佐です」
工藤は頷いた。
「やっぱり」
「この人物は、あなたが持ち出した資料について、どこまで知っていましたか」
工藤は、しばらく考えた。
あの日のことは、何度も思い返していた。
久世との会談は、都内の古い建物で行われた。工藤は、祖父の戦死を防ぐために必要な情報を得られると思っていた。
しかし、久世たちが求めていたのは、祖父の命に関する情報だけではなかった。
「最初は、太平洋戦争の戦況について聞かれました」
「それから?」
「未来の兵器についてです」
「具体的には」
「航空機、潜水艦、通信機器……それから、核兵器についても」
職員は、手元の書類へ何かを書き込んだ。
「あなたは、どこまで答えましたか」
「詳しいことは分かりませんでした。私は技術者じゃありません」
「しかし、資料を渡した」
工藤は、うつむいた。
「はい」
職員は、しばらく黙っていた。
「工藤さん。あなたが渡した資料の一部が、満洲で進められていた秘密研究計画へ流れた可能性があります」
工藤は、顔を上げた。
「満洲?」
「八咫烏計画という名称です」
工藤は、その名前を初めて聞いた。
「何の計画ですか」
職員は、慎重に答えた。
「原子力兵器に関する研究です」
工藤は、何も言えなかった。
祖父を助けたかった。
ただ、それだけだった。
昭和十九年に死ぬはずだった祖父を、何とかして救いたかった。
そのために持ち出した資料が、都市を破壊する兵器の研究に使われているかもしれない。
工藤は、両手を膝の上で握りしめた。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
職員は、工藤を急かさなかった。
しばらくして、工藤が尋ねた。
「野村は、今どうなっているんですか」
「昭和日本側で調査を受けています。ただし、すべての資料が回収されたわけではありません」
工藤は、目を閉じた。
祖父から届いた手紙の最後の一文を思い出した。
『君自身の人生も大切にしてほしい。』
工藤は、ゆっくり顔を上げた。
「まだ、話していないことがあります」
職員の手が止まった。
「何でしょう」
「久世と野村のほかに、もう一人いました」
「誰ですか」
「日本人じゃありませんでした」
職員は、身を乗り出した。
「外国人ですか」
「たぶん、ドイツ人です」
工藤は、記憶をたどった。
「日本語は上手でした。でも、話し方が少し違った」
「名前は覚えていますか」
工藤は首を振った。
「ただ、久世がその男を『博士』と呼んでいました」
職員は、写真を鞄へ戻した。
「その人物について、もう少し詳しく聞かせてください」
工藤は頷いた。
台所では、修理途中の蛇口から、まだ水が落ちていた。




