第十章 最後通牒
一 ベルリンからの要求
昭和十七年四月十九日、未来日本・東京。
首相官邸の執務室には、朝から雨の音が響いていた。
榊原直人は、机の上に置かれた外交文書を読み返していた。ドイツ政府から届けられた文書は、全部で六枚あった。ドイツ語の原文と日本語訳が並べられ、重要な部分には外務省の担当者が赤鉛筆で線を引いていた。
文書には、未来日本と昭和日本に対する技術協力の要求が記されていた。
航空機の設計に関する資料、電子通信技術、工業生産技術、原子核研究に関する情報。それらをドイツ政府へ提供し、共同研究を開始すること。回答期限は四月三十日とされていた。
ただし、要求に応じなかった場合の措置については、明確に書かれていなかった。
榊原は、その部分が最も気になっていた。
「最後通牒というには、妙に曖昧ですね」
外務大臣が言った。
「ベルリンとしても、未来日本に対して何ができるのか、判断しかねているのでしょう」
黒田統合幕僚長は、窓際に立ったまま答えた。
「しかし、曖昧だから安全というわけではありません」
榊原は顔を上げた。
「軍事的な威嚇の可能性は?」
「あります。ただし、ドイツ軍が直接日本本土へ攻撃を加える能力は、現時点では限定的です。むしろ警戒すべきは、情報活動と破壊工作でしょう」
外務大臣が頷いた。
「すでに上海では、未来日本の情報を巡って銃撃事件が起きています」
「ヴェーバーの件ですね」
「はい。依然として所在が確認できていません」
榊原は、資料を閉じた。
昨年十二月、未来日本の通信関係者だった佐伯和彦が上海で殺害された。佐伯が持ち出した電子機器は、その後ドイツの情報関係者へ渡ったとみられている。
そして、その機器を所持していたハンス・ヴェーバーが姿を消した。
一つの事件が終わらないうちに、次の事件が起きている。
「昭和日本政府には、すでに連絡を?」
榊原が尋ねた。
「東條首相側も、同じ要求を受けています」
「回答は」
「まだです」
榊原は椅子にもたれた。
「ドイツは、昭和日本と私たちを一括りにして考えているようですね」
外務大臣は苦笑した。
「同じ日本という名前ですから」
「しかし、別の国家です」
「その点を、ベルリンが十分に理解しているとは思えません」
榊原は、机の端に置かれた写真立てへ目を向けた。
父の写真だった。
以前は、父の顔がはっきり写っていた。ところが、一月半ばから少しずつ輪郭が薄くなり、今では背景の建物の方が鮮明に見える。
榊原は、その写真を研究機関へ預けることも考えた。しかし、結局は手元に置いていた。
写真が消えたからといって、父が存在しなかったことになるのか。
まだ、誰にも分からない。
「総理」
黒田が声をかけた。
榊原は顔を上げた。
「ドイツへの回答ですが、軍事技術の提供は拒否すべきと考えます」
「私も同じ考えです」
「ただし、全面的な関係断絶は避けるべきでしょう」
榊原は頷いた。
「医療や食糧生産など、民生分野の協力は検討する。その代わり、軍事転用につながる技術は渡さない」
外務大臣がメモを取った。
「その方針で回答案を作成します」
榊原は、窓の外を見た。
雨は、まだ降り続いていた。
「それから、東條首相と会談したい」
「京都でしょうか」
「ええ」
榊原は、静かに答えた。
「ドイツが二つの日本を同時に脅している以上、私たちも別々に考えるわけにはいきません」




