二 上海の密告者
三月五日、上海。
ハンス・ヴェーバーは、共同租界の一角にある古い洋館へ入った。建物はスイスの商務関係者エミール・シュタイナーが借りているもので、表向きは貿易会社の事務所だった。
ヴェーバーは、二週間近くホテルへ戻っていなかった。
ドイツ側からの帰国命令を無視している以上、いつ身柄を拘束されても不思議ではない。上海には日本の憲兵も、ドイツの情報関係者もいる。彼らが協力することもあれば、互いに監視し合うこともあった。
シュタイナーは、書斎で待っていた。
「東京から返事が来ました」
ヴェーバーは外套を脱ぐ手を止めた。
「何と」
「あなたとの接触に応じるそうです」
ヴェーバーは、ゆっくり息を吐いた。
「条件は」
「身元の確認と、所持している資料の検証です。それから、身柄の安全については保証できないと」
「正直な返事だ」
シュタイナーは机の上の封筒を差し出した。
「未来日本側は、あなたを上海から移動させたいと考えています」
「どこへ」
「京都です」
ヴェーバーは顔を上げた。
「京都?」
「未来日本と昭和日本の外交協議が行われている都市です。中国側の代表団も滞在しています」
ヴェーバーは、しばらく考えた。
京都。
彼が未来日本の資料で読んだ限り、その都市は史実の第二次世界大戦で大規模な空襲を免れていた。今は二つの日本と中国の外交官たちが集まる場所になっている。
「ドイツ政府は、私が京都へ向かうことを知っているのか」
「まだです」
「いずれ知るだろう」
「おそらく」
シュタイナーは、声を落とした。
「一つ、確認したいことがあります」
「何だ」
「あなたが持っている電子機器は、本当に上海で殺された日本人のものですか」
ヴェーバーは、黙った。
昨年十二月、未来日本の通信関係者、佐伯和彦が上海のホテルで殺害された。彼は未来の歴史資料を外国の情報関係者へ売ろうとしていた。
その後、佐伯が所持していた記憶媒体が行方不明になった。
ヴェーバーの手元にある機器は、その事件と無関係ではなかった。
「私は、佐伯を殺していない」
ヴェーバーは言った。
「それは聞いています」
「彼が死んだあと、仲介人から機器を買った」
「誰からですか」
「名前は知らない」
シュタイナーは、厳しい顔をした。
「それでは、東京の人間は納得しないでしょう」
「分かっている」
ヴェーバーは、鞄から電子機器を取り出した。
「だから、すべて話すつもりだ」
シュタイナーは、機器を見つめた。
「この中には、どれほどの情報があるのですか」
「私にも、すべては分からない」
「それほど大量に?」
「そうだ」
ヴェーバーは、画面を点灯させた。
未来の歴史、地図、産業資料、科学技術に関する解説。画面には、昭和十七年の人間がまだ知らない世界が広がっていた。
「しかし、一つだけ確かなことがある」
「何です」
「この機械を欲しがる人間は、私が考えていたよりもずっと多い」
その夜、洋館の向かい側に一台の黒い自動車が停まった。
車内には二人の男がいた。
一人はドイツ人。もう一人は日本人だった。
ドイツ人が煙草に火をつけた。
「まだ中にいるのか」
日本人が頷いた。
「はい」
「逃がすな」
自動車の窓が閉められた。




