第九章 京都宣言
一 満洲からの報告
昭和十七年三月三日、満洲国・新京。
真壁宗一郎は、宿舎の窓から雪の残る街を眺めていた。三月に入ったというのに、満洲の寒さは一向に緩まなかった。通りを行く人々は厚い外套を着込み、軍用トラックが通るたびに乾いた雪と土埃が舞い上がった。
机の上には、関東軍の秘密研究計画に関する報告書が置かれていた。
八咫烏計画。
未来日本から流出した科学技術資料を利用し、原子力兵器の研究を進めようとする計画だった。東京の東條英機首相は計画の停止を命じた。しかし、関東軍の野村清隆大佐ら一部の将校は命令に従わず、研究資料と技術者を満洲北部へ移送していた。
真壁は、報告書の最後のページをめくった。
移送先の正確な位置は不明。研究に関与する技術者は十数名と推定。施設の警備には関東軍の一部部隊が協力している可能性がある。
それだけだった。
真壁は、机の上に置いた湯呑みを手に取った。茶はすでに冷めていた。
扉が叩かれた。
「入れ」
若い将校が入ってきた。
「大佐殿。片岡少佐がお見えです」
「通してくれ」
片岡信彦は、疲れた顔をしていた。軍服の襟元はきちんと整えられていたが、目の下には濃い隈ができている。
「大佐殿。ご報告があります」
「座りたまえ」
片岡は椅子に腰を下ろした。
「研究施設から、資料の一部が持ち出されました」
「知っている」
「それだけではありません」
真壁は顔を上げた。
「どういうことだ」
「野村大佐は、研究を継続するつもりです。東京からの命令を、形式上のものと考えています」
「証拠はあるか」
片岡は鞄から一枚の紙を取り出した。
「施設の物資調達記録です」
真壁は受け取った。
そこには、発電設備、測定器具、特殊な金属材料などの調達予定が記されていた。いずれも研究施設で使用するものだった。
「これだけでは、兵器研究の証拠にはならんな」
「はい。しかし、研究停止命令のあとに発注されています」
真壁は、日付を確認した。
二月二十三日。
東條の停止命令が関東軍に届いた三日後だった。
「野村は、研究を続ける気か」
「そのようです」
片岡は、しばらく黙っていた。
「大佐殿」
「何だ」
「私は、研究そのものを否定するつもりはありません」
「分かっている」
「しかし、軍が何を作ろうとしているのか、研究者にも知らされないまま進めることには、耐えられません」
真壁は片岡を見た。
「君は、どうしたい」
「研究を政府の管理下へ戻していただきたいのです」
「それは私も同じだ」
真壁は、紙を机に置いた。
「ただし、野村が素直に従うとは思えん」
片岡は頷いた。
「はい」
真壁は窓の外を見た。
遠くに見える関東軍司令部の建物は、灰色の空の下に沈んでいた。
軍人として命令に従うことは当然だと教えられてきた。しかし、今の帝国陸軍では、誰の命令に従うべきなのかさえ曖昧になりつつある。
東京の政府か。現地の司令官か。それとも、帝国の将来を守るという名目で独断を進める者たちか。
真壁は、片岡へ向き直った。
「東京へ戻る」
「大佐殿」
「東條首相へ直接報告する。これ以上、関東軍だけの問題として扱うわけにはいかん」
片岡は、深く頭を下げた。
「お願いいたします」
真壁は報告書を閉じた。
その日の夕方、東京へ向けた緊急電報が発信された。




