二 海に落ちた男
零式艦上戦闘機の操縦席は、驚くほど狭かった。
飛行兵曹長の片桐修一は、そこが好きだった。
機体の振動が尻から伝わり、エンジンの調子が音で分かる。操縦桿を握れば、機体が自分の手足の延長になったように感じられた。
二十三歳の片桐にとって、飛行機を操ることは、人生で初めて手に入れた誇りだった。
新潟の農家に生まれた。
父は田を耕し、母は蚕を育てていた。家には弟が二人いる。長男である片桐が海軍へ入ると告げたとき、父は三日ほど口を利かなかった。
母は泣いた。
しかし、予科練を経て操縦員になった息子が帰省したとき、父は近所の者を集めて酒を振る舞った。
そのことを片桐は、今でも少し恥ずかしく思っている。
出撃前、彼は母から届いた手紙を読んでいた。
今年は雪が早いという。
弟が風邪をひいたという。
近所の娘が嫁に行ったという。
最後には、決まって同じ言葉が書いてあった。
身体を大事にしなさい。
片桐はその一文を、何度も読み返した。
空中戦が始まったのは、彼が母の手紙を飛行服の内側にしまってから、一時間も経たないうちだった。
米軍機は二機。
最初は偵察機かと思ったが、すぐに攻撃機だと分かった。
片桐は僚機とともに迎撃に向かった。
相手の機体が機首を下げた。
片桐は反射的に操縦桿を引いた。
その瞬間、機体が激しく震えた。
何が起きたのか分からなかった。
エンジンから黒煙が噴き出した。
油圧計の針が異常な位置を指している。
「くそっ」
片桐は機体を水平に戻そうとした。
しかし、操縦桿が重い。
右の翼が下がる。
視界の端に、巨大な灰色の軍艦が見えた。
見たこともない形をしていた。
砲塔らしいものは少なく、艦橋の上には奇妙な板状の装置が載っている。
未来から来た軍艦。
出撃前、そんな噂を聞いた。
片桐は笑い飛ばした。
戦争が始まる前になると、妙な話が広まるものだと思っていた。
だが、目の前の軍艦は確かに存在していた。
彼はその艦へ向かおうとした。
理由は分からない。
ただ、あの艦の近くなら助かるような気がした。
機体がさらに傾いた。
海面が近づいてくる。
片桐は風防を開けた。
冷たい風が顔を打った。
そのとき、母の手紙が飛行服の内側から抜け出し、空へ舞い上がった。
「あっ」
思わず手を伸ばした。
紙は風に巻かれ、あっという間に見えなくなった。
片桐は、そのことを妙にはっきり覚えている。
機体が海面に激突した瞬間の記憶はない。
次に気がついたとき、彼は冷たい海に浮かんでいた。
身体が動かない。
右脚が痛む。
遠くで爆発音が聞こえた。
片桐は空を見上げた。
薄い雲が流れている。
新潟の冬空に似ていた。
その下で、彼は初めて死ぬのが怖いと思った。
「母ちゃん」
声が出た。
水を飲んだ。
咳き込む。
もう一度、母を呼ぼうとした。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
日本語だった。
「おい! 生きてるか!」
片桐は目を開けた。
橙色の救命艇が近づいてくる。
見慣れない服装の男たちが、必死に手を振っていた。
「手を伸ばせ!」
片桐は右腕を上げようとした。
上がらなかった。
それでも、もう一度試した。
今度は少しだけ動いた。
男たちが近づいてくる。
誰かが片桐の腕を掴んだ。
「大丈夫だ、引き上げるぞ!」
片桐は、ぼんやりと相手の顔を見た。
日本人だった。
だが、海軍の軍服ではない。
「どこの……部隊ですか」
片桐が尋ねると、男は少し困った顔をした。
「説明は後だ。今は生きることだけ考えろ」
その言葉を最後に、片桐の意識は途切れた。




