三 満洲の研究室
二月五日、満洲国・新京。
陸軍技術将校の片岡信彦少佐は、黒板に書かれた数式を見つめていた。三十八歳。東京帝国大学で物理学を学び、卒業後に陸軍の研究機関へ入った。軍服を着ているものの、本人は研究者としての意識が強かった。
彼が勤務している施設は、もともと工業試験場として使われていた建物だった。窓の外には雪が積もり、暖房の効きが悪い室内では、技術者たちが外套を着たまま仕事をしていた。
机の上には、未来日本の科学資料が置かれていた。原子核の構造、放射線の性質、原子力発電の歴史、核兵器の使用とその被害。片岡は、それらを何度も読み返していた。
昭和十七年の科学でも、原子核分裂という現象は知られている。しかし、未来日本の資料に記された巨大な工業設備や精密な制御技術を、そのまま再現できるわけではない。
若い技術将校が尋ねた。
「少佐殿。この研究は、本当に兵器へつながるのでしょうか」
「理論上は可能だ」
「では、我々にも作れますか」
片岡は首を振った。
「それは別の話だ。必要な材料も設備も、今の我々には不足している」
「どれほどの時間が必要でしょう」
「分からん」
若い将校は、不満そうだった。
「未来日本の資料があるのに、ですか」
「資料は、工場の代わりにはならん」
片岡は、黒板の文字を消した。
「料理の本を読めば、料理の作り方は分かる。しかし、材料も鍋も火もなければ、料理はできん。それと同じだ」
若い将校は、ようやく頷いた。
この研究には、八咫烏計画という名称が与えられていた。日本神話に登場する三本足の烏から取った名前だった。未来の知識を道しるべにして、帝国の新しい力を手に入れる。計画の立案者は、そのような意味を込めたらしい。
片岡は、その名前が好きではなかった。
研究計画の正式な命令系統が曖昧だったからだ。関東軍の一部参謀が強く推進している一方、東京の陸軍中央がどこまで承認しているのか分からない。予算も複数の名目に分けられ、研究の全体像を知る者は少なかった。
その日の午後、片岡は関東軍の野村清隆大佐に呼び出された。
野村は四十代半ばの将校で、満洲の軍事力強化を強く主張していた。机の上には、未来日本の軍事技術に関する報告書が積まれていた。
「片岡少佐。研究は進んでいるか」
「基礎調査を進めております」
「兵器化の見通しは」
「現時点では立っておりません」
野村は眉を寄せた。
「未来の資料があるのだろう」
「はい。しかし、資料だけでは製造できません」
「不足している設備は整えればよい」
「それには相当の資源と時間が必要です」
野村は、椅子の背にもたれた。
「少佐。君は、この研究の意味を理解しているか」
「科学的な意味であれば」
「そういう話ではない」
野村は机を指で叩いた。
「未来日本が現れたことで、世界の軍事均衡は変わる。米国も、ドイツも、ソ連も、未来の技術を求めている。我が帝国だけが手をこまねいていてよいはずがない」
片岡は黙っていた。
「原子力兵器を持てば、帝国は他国に脅かされずに済む」
「必ずしも、そうとは限りません」
野村の表情が変わった。
「何だと」
「他国も同じ兵器を開発すれば、さらに危険な状況になる可能性があります」
「だから先に持つのだ」
片岡は、言葉を飲み込んだ。
野村は続けた。
「君の仕事は、政治を論じることではない。研究を進めることだ」
片岡は、静かに頭を下げた。
「承知しました」
しかし、部屋を出たあとも、その言葉は胸に残った。
自分の仕事は、本当に研究だけなのだろうか。
何を作るのか。その結果、誰が死ぬのか。
それを考えずに済む科学者など、存在するのだろうか。




