第八章 八咫烏計画
一 上海のドイツ人
昭和十七年二月二日、上海。
ハンス・ヴェーバーが滞在しているホテルの部屋は、冬になるとひどく寒かった。窓枠が歪んでいるのか、閉め切っても隙間から風が入る。夜になると、通りを走る自動車の音と、酔った船員たちの話し声が聞こえた。黄浦江から流れてくる湿った空気には、石炭の煙と川泥の匂いが混じっていた。
ヴェーバーは机に向かい、ベルリンへ送る報告書を書いていた。四十三歳。表向きの肩書は貿易会社の顧問だったが、実際にはドイツの情報機関へ報告を送る仕事をしている。
上海には三年前から住んでいた。
彼の机には、未来日本から流出した小型の電子機器が置かれていた。
手のひらより少し大きい、黒い板のようなものだった。
最初に受け取ったとき、ヴェーバーはこれを何に使うのか分からなかった。
側面の小さな突起を押すと画面が明るくなり、指で触れるだけで文字が動いた。この機械の中には、未来の歴史が保存されている。それを理解したとき、彼は興奮した。しかし、今では電源を入れるたびに気が重くなった。
ドイツは敗北する。
一九四五年、ベルリンは陥落し、ヒトラー総統は死ぬ。東西に分断されたドイツが再び統一されるのは、それから四十年以上も先のことだった。
ヴェーバーは、机の上の写真を見た。妻と娘が写っている。娘のエリザベートは、今年で九歳になるはずだった。ベルリンから届いた最後の手紙には、学校で覚えた歌のことが書かれていた。その娘が、三年後にどこで何をしているのか。未来の歴史資料には、書かれていなかった。当然だった。歴史書が記録するのは、戦争の勝敗や国家の運命であって、無数の家庭の食卓ではない。
ヴェーバーは、報告書の続きを書こうとした。そのとき、扉が叩かれた。
「入れ」
現れたのは、中国人の青年だった。陳文徳。二十六歳。上海の貿易会社に勤める通訳で、ヴェーバーの連絡係でもあった。
「先生、ベルリンから電報です」
陳は封筒を差し出した。ヴェーバーは受け取り、暗号文を読み始めた。
内容は簡潔だった。未来日本の技術資料を本国へ送付せよ。特に、航空技術、通信技術、原子核研究に関する情報を優先すること。必要であれば、資料を所持する人物の身柄も確保せよ。
ヴェーバーは、最後の一文をもう一度読んだ。
「何か問題がありましたか」
陳が尋ねた。
「ベルリンは、私が持っているものの価値に気づいたらしい」
「よいことではありませんか」
「そうとも限らん」
ヴェーバーは、電報を折り畳んだ。
原子核研究。その言葉が、気になっていた。未来日本の資料には、広島と長崎のことが記されていた。一発の爆弾で都市の広い範囲が破壊され、多くの人間が命を落とした。
ドイツが、その兵器に関心を示している。もしヒトラー総統が未来の敗北を知ったら、戦争を終わらせるだろうか。それとも、敗北を覆すために、さらに強力な兵器を求めるだろうか。ヴェーバーには、後者の方がありそうに思えた。
「陳君」
「はい」
「君は、未来日本の歴史を読んだことがあるか」
「少しだけ」
「どう思った」
陳は、しばらく考えた。
「不思議でした」
「何がだ」
「先生方は、ドイツが負けることを気にしている。日本人は、日本が負けることを気にしている」
陳は、机の上の機械を見た。
「でも、中国では、今も人が死んでいます」
ヴェーバーは、顔を上げた。
「未来の話より、今日の戦争が終わるかどうかの方が、私には大切です」
陳は、少し申し訳なさそうに笑った。
「すみません。余計なことを言いました」
「いや」
ヴェーバーは、静かに答えた。
「君の言うとおりだ」
陳が帰ったあと、ヴェーバーは報告書を破り、新しい紙を取り出した。今度はベルリンへ送るためではなかった。未来日本の政府へ接触するための文書だった。
彼は、ペンを持ったまま長い時間を過ごした。祖国を裏切るつもりはなかった。しかし、祖国の政府にすべてを渡すことが、本当に祖国のためになるのか。その答えを、彼はまだ出せずにいた。




