十五 父の声
一月三十日。
榊原直人は、首相官邸の執務室で一人になっていた。
机の上には、京都停戦予備協定の正式な写しが置かれている。
歴史に存在しなかった協定。
その成立に、自分が関わった。
榊原は、文書を見つめた。
多くの人命が救われるかもしれない。
しかし、同時に、未来日本の歴史はさらに変わっていく。
榊原は、引き出しから父の写真を取り出した。
父の顔は、以前よりも薄くなっていた。
榊原は、しばらく写真を見つめた。
そして、目を閉じた。
父の声を思い出そうとした。
子供の頃、叱られたこと。
大学に合格したとき、喜んでくれたこと。
政治家になると言ったとき、反対されたこと。
首相に就任したとき、すでに父は亡くなっていた。
しかし、もし生きていたら、何と言っただろう。
榊原は、静かに呟いた。
「父さん」
返事はなかった。
当然だった。
しかし、その声が、自分の記憶の中からも消えてしまうのではないかと思うと、恐ろしかった。
榊原は、写真を机の上に置いた。
そして、紙に父の名前を書いた。
榊原正一。
何度も書いた。
文字は、まだ消えなかった。
榊原は、深く息を吐いた。
そのとき、秘書が入室した。
「総理」
「何でしょう」
「昭和日本政府から、正式な連絡です」
榊原は顔を上げた。
「内容は」
「京都停戦予備協定の実施に向けて、東條首相が軍内部の調整を進めるとのことです」
「分かりました」
「ただし、一部の軍部関係者が強く反発しているようです」
榊原は、静かに頷いた。
「予想していました」
秘書は、少し間を置いた。
「今後、どうされますか」
榊原は、机の上の協定文書を見た。
「まず、停戦を実現させます」
そして続けた。
「そのあと、撤退の交渉を進める」
秘書は頷いた。
「承知しました」
榊原は、窓の外を見た。
東京の街には、冬の夕暮れが訪れていた。
遠くのビル群には、節電のため明かりが少なかった。
しかし、街はまだ生きていた。
人々は働き、家族と食事をし、明日のことを考えている。
その日常を守るために、自分は首相になったのだと思った。
榊原は、父の写真を引き出しへ戻した。
そして、次の会議の準備を始めた。




