第68話 祈りに抱かれて
アンジェラは昏々と眠った。
手足が鉛のように重い。強い反動が揺り返しては全身を縛る。
頭が割れるような痛みを飼いながら、夢すら見ることができないほど深い眠りの底に沈んだ。
(……)
どこからともなく、あたたかいものが流れてくるのを感じる。
冬空のように澄んだ、一途な想い。強くて優しい祈りに抱かれて、アンジェラの瞼がかすかに動いた。
(……ここは……?)
ぼやけた視界の中。少しずつ照準を結ぶのは、見慣れない柄の天井。
体の節々が痛いが、背中には柔らかい感触を感じる。上質な寝台に寝ているようだ。
轢む首を動かして視線を移した時、アンジェラの鼓動は高鳴った。寝台の脇にリオネルがいたのだ。
リオネルは目を閉じ、指を交互に組み、真摯に祈りを捧げていた。
きつく顰められた眉間は険しく、近寄りがたいほど厳然とした空気をまとっている。
「リル……」
アンジェラがつぶやくと、リオネルははじかれたように立ち上がった。
「ジル!」
リオネルの目元には濃い隈が刻まれていたが、アンジェラを見た瞬間、やつれていた面輪には安堵が広がった。
「リル、もしかして一睡もしていないの……?」
「当たり前だ」
「ごめんなさい。心配をかけてしまっ──」
「謝らないでくれ。君が私のためにしてくれたことはわかっている」
詫びようとしたアンジェラを遮って、リオネルは首を横に振った。
心配そうにアンジェラを見つめる彼の顔には、双つの瞳が確かに輝いている。
そのことが何よりも嬉しくて、アンジェラは満ち足りた笑みを浮かべた。
「私はもう大丈夫。何ともないわ」
本当はまだ体が重いし、節々が鈍く疼く。治癒の力を使いきったせいだろう。頭痛が止まらなかったが、辛いとは感じなかった。
リオネルの傷を治すことができた。失われた眼をもう一度見られたのだから──後悔はしない。
「君は……本当に……」
アンジェラの笑顔がまぶしくて、リオネルは眼を細めた。
──彼女はいったいどれだけのものを自分に与えてくれるのかと、胸が締めつけられる思いがする。
リオネルはジュリエットの幸福を願って眼を捧げたことを、後悔したことは一度もない。
醜いと蔑まれようとかまわなかった。みっともないと嘲笑われようとどうでもよかった。
ジュリエットだけが希望だった。彼女より大事なものなど何もなかった。
そして今。ジュリエットの魂を持つアンジェラを目の前にして、抱き続けてきた希望がはっきりと愛に変わっていくのをリオネルは実感していた。
彼女は前世の自分がみすぼらしかったと思っているようだが、リオネルの目には容姿の差はわからない。
ただ昔も今も、この世で彼女一人だけが内側から輝いていると思うだけだ。
「リル。私が眠っている間、テュレンヌ公はどうなったの? オルタンス様は?」
アンジェラが尋ね、リオネルはうなずいた。
「テュレンヌ公は身柄を拘束され、勾留されている。過去の事件についても正式に捜査を行うことが決定した。オルタンスは半狂乱だが、いくら騒いでもどうにもならないだろうな」
父親が殺人罪で起訴される以上、オルタンスはもはや王妃ではいられない。
オルタンス自身は事件には関与していないが、恩恵を享受したのは確かだ。父の犯行によって得た地位は、父の逮捕によって潰えることになる。
何も知らなかったオルタンスにとっては寝耳に水。動転して騒ぎ立てているようだが、どれだけわめこうと状況は変わらない。
「ナタンに対しては私が罪を問うつもりだ。あの男の愚かさがテュレンヌ公の謀略を叶えた。決して許す気はない」
怒りの燃える声でリオネルは言った。
聖女を処刑した罪は、テュレンヌ公以上にナタンに責任がある。
ナタンは自分も騙されたのだと主張しているが、彼の軽率で短絡的な愚行を誰が許そうと、リオネルだけは絶対に許すつもりはない。徹底的に追い詰める気しかない。
ナタンにはジュリエットが無実であると公に発布させるし、必ず彼女の名誉を回復させる。彼女の魂に心底詫びさせた上で、生涯をかけて犯した罪を償ってもらうつもりだ。
リオネルの本音としては、ナタンもテュレンヌ公も惨たらしく殺してやりたい。ジュリエットが味わった苦痛を何倍にもして与えてやりたい。
それでも──裁きは法に委ねる。
許したのでもない。彼らを許すなど未来永劫ありえない。
法を遵守するのは、ただジルがそう望むから。──それだけだ。
この国に降り積もった澱が、溜まった膿が、ついに洗い出される時が来た。
厚い雲に長く閉ざされ続けた王国に、ようやく浄化の光が射す日が来たのだ。
「そう……」
アンジェラは静かに受け止めた。
──あなたを告発します。テュレンヌ公にはそう言ったものの、実際には他国の皇族であるアンジェラが出張れば国際問題になる。
この国のことはこの国の人間が裁く。帝国が介入する必要はない。
(私に……できることは……)
アンジェラは思案した。
「リル。やっぱり私、神殿を訪問させてほしいともう一度お願いしようと思うの」
神官には断られたが、やはりあきらめきれない。
「神殿には当代の聖女がいるでしょう? 私と同い年の女の子だもの。何かできることがあれば助けになりたいわ」
「ジル。それは無理だ」
きっぱり否定されて、そんな、とアンジェラは肩を落とした。
「もちろん私が先代の聖女だったなんて言ったりしないわ。ただ私はなぜか今も治癒の力を持っているみたいだから、聖女と協力すればもっと多くの人を救えるかもしれないでしょう?」
たった今まで力を使った反動で倒れていたのに、これからも人々を救う気でいるのか──とリオネルは胸を痛めた。
リオネルとしては今後二度と彼女に治癒の力を使わせたくはない。そのためなら全力を注いで、この国の医療技術を向上させるつもりだ。
「当代の聖女がちゃんとした待遇を受けているかも心配なの。もしも劣悪な環境下にいるなら改善してあげたいわ」
「無理なんだ、ジル」
「どうして?」
「神殿に聖女はいないからだ」
「!?」
アンジェラは目をまたたいた。
「いないってどういうこと? どこか別の場所に移っているということ?」
「いや。最初からいない」
「最初から……?」
「ジルが亡くなった後、この国には次の聖女が誕生しなかったんだ。ずっと怪しいと思っていたが、この期に神官長を問い質したところ、ようやく口を割った」
聖女がいないと知られれば民心が離れるし、国王の威光にも傷がつく。
だからナタンは厳重な箝口令を敷いて、聖女の不在を隠蔽させていたらしい。どこまでも自分の保身しか考えない浅慮な男だ。
「え……え……?」
「当然だな。聖女は当代に必ず一人しか存在しないのだから」
リオネルは当然だと言い切ったが、アンジェラは開いた口が塞がらなかった。
(ええっ!? 私を殺した国、次の聖女が生まれていないんですか!?)




