第67話 私を離さないで
「何がどうなっているんだ!?」
ナタンは公訴だの裁判だのの話に全くついていけないらしい。置いてきぼり状態に耐えられず、やかましく騒ぎ立てた。
「アンジェラ皇女殿下! なぜ私の宰相を訴えるなどと突拍子もないことを言い出すのです?」
アンジェラはナタンに向き直った。
「ナタン《《殿下》》。よくご覧になってください」
「で、殿下?」
過去の敬称で呼ばれて、ナタンは目を丸くした。
アンジェラは先ほどマントを脱ぐために緩めた首元に、もう一度手をやった。
ハイネックの襟をそっと捲ってみせると、そこには花の形をした赤い痣。
「はあぁっ!?」
ナタンは素っ頓狂な声をあげた。
薔薇のような神秘的な痣はナタンがこの十年以上、ずっと血眼になって探し続けてきたものだったからだ。
「ななななぜ!? あなたに聖痕が!?」
ナタンは泡を食って皇女を指さした。無礼にもほどがあるが、相当錯乱しているらしい。
「先ほどテュレンヌ公にも申し上げましたが、私はジュリエットの死んだ日に生まれました。お疑いならどうぞ確認なさってください」
アンジェラが告げ、ナタンは言葉を失った。
皇女の生年月日はいくらでも公式の資料に載っている。偽造など不可能だろう。
「し、しかし! あなたはサフィール帝国の人間だ! 我が国の血を引いてはいな……!」
「私の実母は侍女だったと申し上げたはず。母はコライユ王国からの亡命貴族でした。三十年前の内乱で失脚したシャロン子爵家です。没落したとはいえこの国の貴族だった家なのですから、当然ご存知ですよね?」
「ももももちろん知っている。シャロン伯爵家だな……」
(子爵家ですけど……)
完全に知ったかぶりである。
いくら粛清が起きたのはナタンが幼い頃とはいえ、複数の貴族が廃絶になった大事件だ。必ず教師から習ったはずなのに覚えていないらしい。
アンジェラはあきれてため息をついた。
「私自身は帝国で生まれ育ちましたが、流れる血は王国に近いようです」
「では……まさかあの占いの結果は……!?」
ナタンの脳裏に蘇ったのは、神殿に命じて占わせた神託の結果だった。
"聖女はすでに生まれている"
何度占ってもそう下された神託は確かに、聖女が「王国に」いるとは言っていなかった。
「だ、だからって! 帝国に生まれているなど思うはずがないだろうがッ!」
地団太を踏んで、ナタンは悶えた。
もはや王の威厳など微塵もなく無残にうろたえるナタンを、さらに畏怖させる声が降った。
「十五年前、ナタン殿下はおっしゃいました。"偽聖女"、"弑逆者"、"大罪人"と……」
皇女が知るはずもない昔の自分の発言を突きつけられて、ナタンは全身が総毛立つような恐怖を覚えた。
「ジュリエットは偽聖女ではありません。弑逆者は王妃様を暗殺したテュレンヌ公です。そして大罪人は……」
あえてナタンを「殿下」と呼び続けるアンジェラの声と、紫色の瞳は、死んだジュリエットにそっくりだった。
「──ろくな証拠もなく聖女を処刑し、この国を傾けたあなたです。ナタン殿下」
かつて自身が死罪を命じたジュリエットの姿が、目の前のアンジェラにはっきりと重なって見える。
「ジ……ジュリエット……なのか……?」
肝が潰れるどころか、内臓すべてが圧死するほどの恐怖に襲われて、ナタンはへなへなとその場に座り込んだ。
「……そ……そんな……」
放心しながら、ナタンはうわごとのように呻く。
「ま……まさか……テュレンヌ公が母上を殺した犯人……? ジュリエットは無実だった……!?」
かつてない戦慄と衝撃に打ちのめされたナタンは、ようやく自らの過ちを悟った顔をしていた。
「許してくれ、ジュリエット! 私は何も知らなかったんだ!」
ナタンは髪を振り乱してとりすがった。
「私はテュレンヌ公に謀られたのだ! このような佞臣に騙されるなど不覚だった! どうか私の話を聞いてくれ!」
「あなたはジュリエットの話を聞いたのですか?」
アンジェラは冷ややかに尋ねた。
──罪人の言い訳など聞けば耳が穢れる。そう言ってジュリエットの言い分を何も聞こうとしなかったのはナタンではないか。
これまで政に関して頼りきっていたであろうテュレンヌ公を、あっさりと手のひらを返して佞臣と切り捨てる薄情さにもあきれるしかない。
「あなたの言い訳など聞けば耳が穢れます。ナタン殿下」
「あ……あ……あああ……」
ナタンは頭を抱えて縮こまったかと思うと、大地に五体を投げ出して詫び始めた。
「……すまなかった、ジュリエット! 私が間違っていた……!」
平身低頭するナタンを、アンジェラは一瞥もしなかった。
ジュリエットは殺された。いくら謝られても許せるはずもないことをナタンはしたのだ。
後悔するのは彼の勝手だが、謝罪を受け取る気はない。話は今後すべて法曹職の専門家を通してもらうつもりだ。
詫びるナタンをきれいに無視して、アンジェラはリオネルに向き合った。
「リル。お願いがあるの」
「願い?」
「ええ、約束して。私の望みをたった一つだけ聞いてくれると」
いつになく有無を言わせない、強い口調。
「……約束する」
リオネルは静かに首を縦に振った。
「私を離さないで」
言うやいなや、リオネルの黒い眼帯がはらりと落ちた。
アンジェラが眼帯を剥いで、傷痕に両手を当てたのだ。
「私の手を離さないで。何があっても決して動かないで」
「ジル?」
アンジェラは目を閉じ、ありったけの力を集中させた。
手のひらが熱を孕み、指先から淡い光があふれる。
「ジル、やめろ!」
「約束したわ。リル、動かないで」
アンジェラの額に汗がにじんだ。
指が捥げそうなほどの重圧が渦巻く。膨大な負荷が跳ね返ってくるのを感じる。
今世ではずっと封じてきた治癒の力が、軛を解かれたようにあふれ出た。
奇跡の力が迸り、アンジェラを駆け抜ける。
祈りが光となり、光が洪水となり、洪水がリオネルの中へと注ぎ込まれていく。
「リル……見える……?」
アンジェラの手がそっと離れた時。
リオネルの顔面にはアイスブルーの《《双眸》》が輝いていた。
「ああ……」
リオネルはゆっくりと、広がった視界をながめた。
十五年ぶりに両眼で映す世界で初めて見たものは、この世のどんな宝石よりも美しい、澄んだ紫水晶だった。
「見える……君が……はっきりと……」
その言葉を聞いて、アンジェラの青ざめた顔に心からの安堵が広がった。
「よかった……リル……」
それだけを言うのが限界だった。
次の刹那、アンジェラの意識は途切れた。治癒の力をすべて使い果たしたのだ。
「ジル!」
倒れたアンジェラをリオネルが抱き止めたが、いくら呼びかけても彼女は深く昏倒したまま目を開けなかった。
「ジル! しっかりしろ!」
度肝を抜かれたのはナタンとその従者たちだった。
「あ……あわわわ……!」
リオネルの顔に刻まれた裂傷は癒え、失われた左眼は元に戻っている。まるで傷など最初から何もなかったかのように。
「せ、聖女……!」
「聖女だ……!」
聖女は病を治し、傷を癒す力を持つと言い伝えられている。
だが欠損した身体の一部を再生させるなど、聞いたことがない。
たった今目の当たりにしたのは、まさに神の御業。
歴代の聖女の中でも間違いなく史上最強の力を見せつけられて、誰もがおののかずにはいられなかった。
「奇跡だ! 本物の聖女だ!」
人々は口々にそう叫び、次々と膝を折った。
その場にいた全員が一様に頭を垂れる。
国王ナタンにではなく、王弟リオネルと、彼に抱かれて眠る皇女アンジェラに。




