第65話 あなたが無事でよかった
「な……なんなのだ……!」
とっくに終わったはずの過去を洗いざらい暴かれて、テュレンヌ公は茫然自失とした。
「くっ! なぜ今になって……!」
頭を掻き毟ろうとしたテュレンヌ公は、首をぐいっと引かれて動きを封じられた。
「……私は貴様を許す気はない、テュレンヌ公」
リオネルがテュレンヌ公の胸ぐらをつかんで、宙に持ち上げたのだ。
「王妃を殺したければ勝手にすればいい。だがなぜジルを……聖女を巻き込んだ? なぜ彼女が死ななくてはならなかった!?」
オルタンスを守るためだろうが何だろうが、無関係のジュリエットが濡れ衣を着せられていいはずがなかった。
「どんな事情があろうと、無実の聖女を犠牲にした貴様を決して許しはしない……!」
まるで百獣の王が牙を剥いたかのようだった。
憎悪が激しく滾り、憤怒のこもった力で締め上げられる。
なぜ王弟リオネルが聖女の死にこれほど激昂するのかわからず、テュレンヌ公は苦しそうに呻いた。
「リル、やめて! 死んでしまうわ!」
テュレンヌ公の意識が遠のき、アンジェラが止めに入り、リオネルが手をゆるめた時だった。
場違いにのんきな声が、張りつめた空気を読まずに放たれた。
「ん? 誰かいるのか?」
アンジェラもリオネルも、振り返るより先に頭が痛くなった。
絶対に面倒になるとわかっていたので、この場に呼びたくなかった人物の声だったからだ。
「おい、答えろ! そこで何をしている?」
ナタンはどこかへ行くつもりなのか、外出用の套衣を羽織っていた。
少数の従者を連れただけの軽装だから、外に作った愛人の元にでも向かう途中なのかもしれない。悪い点ばかり艶福家だった父に似ている男である。
「リオネル!? アンジェラ皇女殿下!? それに……テュレンヌ公!?」
リオネルがテュレンヌ公を取り押さえているのを見て、ナタンはにわかに血相を変えた。
「リオネル、貴様! テュレンヌ公が私の右腕と知っての狼藉か!?」
頭に血が上ったナタンは高圧的にわめいたが、リオネルはさらりと切り捨てた。
「後ほど順を追って伝えますので、少し黙っていてください」
「そそそそれが国王に対する口の利き方か!?」
ナタンはぎゃんぎゃんと吠えながらリオネルに詰め寄り、力任せに胸を突き飛ばした。
リオネルは倒れるどころかよろめきもしなかったが、テュレンヌ公は一瞬の隙を見逃さなかった。全力で身をよじって、足元に手を伸ばす。
「──っ!」
テュレンヌ公がとっさにつかんだのは手燭だった。
火のついた蝋燭が支柱から引き抜かれ、大きく宙を舞う。
「きゃあああっ!」
絹を裂くような悲鳴があがった。メイドの声だ。
テュレンヌ公の放り投げた蠟燭が、メイド服のスカートに落ちたのだ。
裾から焦げ付き始めた火は白いエプロンに移って、またたく間に燃え上がった。
「いやああっ! 熱いっ!」
メイドの絶叫が夜のしじまを切り裂く。
その場にいる全員が炎に目を奪われた刹那。テュレンヌ公は素早く反対方向へと駆け出した。
「待て! テュレンヌ公!」
リオネルもすかさず後を追う。
残されたアンジェラは、炎を前にがくがくと震えた。
「あ……あ……」
メイドを助けなくてはと思うのに、体に力が入らない。
炎を見るだけで心がすくむ。煙を吸うだけで手足がこわばる。火の粉が舞うだけで全身が萎えていく。
(いや……怖い……! 火は怖い……!)
前世の死因となった火。ジュリエットの体を焼き尽くした炎。
言葉では言い表せないほど強い恐怖に襲われて、どうしても動くことができない。
ナタンが助けてくれないかと期待して視線を向けたものの、彼はおろおろと狼狽するばかりで、救助に動く気配はなかった。
ナタンには前世のトラウマもないはずなのに、本当に役に立たない男である。
「た、助けてっ……!」
メイドは必死にスカートの火を叩きながら、痛々しい声をあげてその場に倒れた。
まだ十五か十六くらいだろうか。若いメイドの姿が、かつて炎にのまれたジュリエットと重なる。
(私が……しっかりしなきゃ……!)
おびえる心を叱咤して、アンジェラは自分を奮い立たせた。
「今、助けるわ!」
アンジェラは胸元の留め具を外してマントを脱いだ。テュレンヌ公の動向を見張るべく、夜陰に溶け込むために選んだ漆黒のマントだ。
メイド服の素材は麻。麻は植物なので燃えやすく、織り目も粗いため燃焼も早い。
対して、アンジェラのマントは絹。絹は蚕なので比較的ゆっくりと燃えるし、目を細かく織り上げられている高級品のため火が回りにくい。
(お願い! 消えて!)
アンジェラはマントを両手に掲げて、空気を遮断するように火元を包み込んだ。
マントの内側で押さえ込んだ火がはじけるのだけで、死ぬほど恐ろしい。熱が伝わってくるのを感じるだけで気絶しそうになる。
アンジェラは失いそうになる意識を必死に保ち、無我夢中でメイドに覆いかぶさって延焼を抑え込んだ。
厚手の生地に酸素を遮られて、火は勢いを弱めていく。
やがてメイド服の裾が黒い灰となって、ほろほろと焼け落ちた。
「……消……えた?」
アンジェラは荒く息をしながら、メイドを見つめた。
「……怪我していない……? 大丈夫……?」
「は……はい、ありがとうございます」
メイドは膝と脚に火傷を負ったものの、軽傷のようだ。信じられないといった表情で目を瞬き、アンジェラを見返す。
「ど、どうして帝国の皇女様が私などを……?」
──なぜ一介のメイドに過ぎない自分を、一国の皇女が体を張って助けてくれたのか。
「だって……炎に包まれるのは……とても苦しいもの……」
言葉にした途端、アンジェラの紫の両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
焼死は本当に苦しいのだ。
猛烈な熱さ。全身を炙る痛み。喉を塞がれて窒息する辛さ。どれほど時間が経ってもあの苦しみを忘れたことはない。
「あなたが同じ思いをしなくてよかった。無事でよかった……!」
未来のある若い女の子が、ジュリエットと同じ目に遭わなくて本当によかった。
「皇女殿下……!」
メイドの目からも涙があふれる。
泣きながら感謝を述べるメイドの手を、アンジェラが煤けた手で優しく取った時。視界がふっと暗くなった。
いつの間にかリオネルが戻ってきていたのだ。彼の長身が作る影に包まれて、アンジェラは顔を上げた。
「リル?」
リオネルはしっかりとテュレンヌ公を捕らえているのだが……何だか様子がおかしい。
まるで心臓を鷲づかみにされたような表情をしたかと思うと、リオネルは大きな手で顔面を覆った。小刻みにぷるぷる身震いしながら、感極まった声でつぶやく。
「……天使か……!」
「?」
確かに名前は"天使"だけれど、今さら何を言っているのだろう?
リオネルがなぜ震えているのかわからなかったが、おかげでアンジェラは炎の恐怖が和らいだのだった。




