第64話 放火
王太子ナタンがオルタンスに言い寄り出した頃から、テュレンヌ候は娘の身に理不尽な誅罰が向くことを恐れ、王妃ディアーヌに毒の目薬を献上した。
ディアーヌは瞳を美しく見せる目薬の効能をことのほか気に入り、もくろみ通り、テュレンヌ候からの贈り物であることを誰にも明かさなかった。
毒は少量ながらも着実に体内に取り込まれ、ゆっくりと作用し始めた。
目頭には涙点、つまり涙の排出口があるのだ。取り込んだ毒は涙と混ざりあい、喉や鼻の粘膜で吸収されて、やがては全身に回る。
「多くまばたきをした方が効き目がよくなる」などと嘘をついて、パチパチとまばたきをさせればより効果的だ。
頭痛に頻脈、ふらつきに倦怠感。すべてベラドンナの汁液を摂取したことによる症状だったが、何も知らない医師たちは持病の片頭痛が悪化したのだろうとか、季節性の風邪を引いたのだろうとか診断を下してくれた。
テュレンヌ候は大げさに心配したふりをして、王妃に対して提供された食事や、処方された薬について丁寧な記録を取らせた。飲食物に毒を盛ることは不可能だと証明するためだ。
王妃がいよいよ弱ってきたところで、テュレンヌ候は聖女ジュリエットに白羽の矢を立てた。
もっとも彼が直接動くまでもなく、悪化する王妃の容態を案じた周囲が、聖女に治療をさせようと勝手に手配してくれたのだが。
テュレンヌ候は他の側近らと共に神殿に向かい、とまどうジュリエットを半ば強引に王妃の元へ連行した。
これで「聖女が王妃に力を注いだ」という既成事実ができたことになる。
何もかもすべて計画通り。──そう思った矢先、予想外のことが起きた。
『ああ……何だか久しぶりにすっきりとした心地がするわ……』
晴れ晴れとそう言った王妃ディアーヌの顔には、失われた生気が戻っていた。
聖女の力は本物だったのだ。王妃はジュリエットの治癒によって快復してしまった。
──まさか王太子ナタンをはじめとする周囲から侮られ、さんざん見下されている聖女が、これほど強い癒しの力を持っていようとは。
時間をかけて蓄積させた毒もすべて浄化されてしまったのだろう。今までの苦労が水の泡だ。
──急がねば。一刻の猶予もない!
テュレンヌ候は焦燥に駆られた。聖女に罪を着せるためにも、治療から間を置かずに王妃を葬らなければならない。
もちろん外傷の残る殺し方はできない。あくまでも聖女の犯行に見せかけなければならないのだから。
焦慮に突き動かされるまま、テュレンヌ候はそれまで薬師から入手していたベラドンナに自ら手を出した。
その葉に素手で触れれば、炎症を起こすとは知らずに。
『何だこれは……!? 手が……!?』
テュレンヌ候は十五年後にも若いメイドを自ら始末しようとすることになるのだが、どうにも他者の手を極力借りずに、自分自身で動こうとする性分らしい。
協力者を作ればそれだけ犯行が露見する可能性が高くなることが理由だが、他人を信用することのできない性格も手伝って自ら行動した結果、うかつにも手に炎症を負ってしまう結果となった。
『しまった……。だが、手袋をして隠しておけばわからないだろう……』
ベラドンナの中で最も殺傷力の強い、根の猛毒を手に入れて、テュレンヌ候は王妃ディアーヌを見舞った。
あとは舌先三寸だ。
『美しき王妃様、ご快癒なさって何よりです。国王陛下もまもなく視察からお戻りになるご予定。いつも以上に華やかに装ってお出迎えになれば、陛下の寵愛はあなた様ただお一人のものとなることでしょう──』
そう甘くささやき、丁重に阿り、巧みに言いくるめて王妃を着飾らせた。
仕上げはもちろん、希釈していない猛毒だ。
テュレンヌ候の想定通り、王妃の体調は急変。
母の急な逝去を知ってパニックになったナタンには、ただ耳元でささやけばよかった。──聖女の仕業だ、と。
『聖女です。聖女ジュリエットが治療に見せかけて王妃様を殺害したのです──』
ナタンは元より平民出身のジュリエットをよく思っておらず、あわよくば貴族出身の聖女と交代させたいと願っていた。
その不満につけ込み、彼の欲を擽ったのだ。
ジュリエットを引きずり下ろせるこの容疑に、ナタンは必ず食いつく。
母に似て悪い意味で行動力のあるナタンは、一度思い込んだら他の者に疑いの目を向けることなく、迅速に刑を執行するはずだ。
民衆にとっても「聖女が王妃を殺した」というスキャンダルほど大きなインパクトはない。処刑という最大の娯楽を前に、衆愚は判断力を失って熱狂することだろう。
テュレンヌ候は火種を焚きつけ、風を送り、煽って大きく燃え上がらせた。
テュレンヌ候が放った火はやがて、ジュリエットを焼く火刑の炎となった。




