第60話 犯人
冴え返るような乙夜だった。
日はすでにとっぷりと暮れている。痩せ細った月も、空に数多に散りばめられた星々も、雲間に隠れてほとんど見えなかった。
朧にかすむ夜半の下、手燭のあかりがちらちらと揺れる。
抜き足さし足。物音を立てないようにそっと庭園にまろび出てきたのは、まだあどけなさの残る若い少女だった。王妃オルタンスに仕えるメイドだ。
メイドは用心深くあたりを見回しながら身を縮め、気配を殺して庭園を進んだ。使用人用の通行口をくぐり、人目につかない裏手へと渡っていく。
やがてたどり着いた園地の片隅には、一人の人物が先に来ていた。
目深にかぶったフードで顔は見えない。黒い厚手のマントで体型は隠れ、革の手袋をした手で手燭を持っている。
若いメイドは震える手足を必死に抑えて、上ずった声で切り出した。
「さ、先に報酬をください!」
黒衣をまとった人物は無言でうなずき、懐に手をさし入れた。
手袋の上に光るのは、数枚の硬貨。
夜陰の中でもはっきりと見える貨幣は、きらめく金無垢の色だ。
メイドはごくりと息を飲んだ。金貨を受け取るかわりに、王妃オルタンスの元から持ち出した《《あるもの》》を取り出して、黒衣の人物に手渡す。
「よかった……これで家族に仕送りができる……」
王妃付きのメイドとして働くことができる時点で、彼女の実家はそれなりの名家だ。
しかし近年は長引く不況の煽りを受けて家が傾き、家族の生活も困窮しつつあった。
王宮務めの彼女の俸給で何とか持ちこたえていたのに、それすらも最近は減らされて困っていたのだ。
これだけあれば、まだ小さい弟や妹に満足に食べさせてあげられる──。
メイドがそう安堵し、ほっと気を抜いた瞬間だった。
「──っ!」
背後からいきなり首を絞められて、メイドは痛みに呻いた。
「……ううっ……!」
メイドは必死に暴れてもがいたが、首をつかまれたまま地面に引き倒された。
暗かった視界がさらに暗くなる。黒衣の人物が彼女に馬乗りになって、声をあげないように口を塞いだのだ。
もう片方の手に光るのは、隠し持っていた懐剣。
夜気の中に、白刃が閃く。
鋭利な切っ先が、少女の心臓を刺し貫こうとした刹那。
「──っ!」
声にならない声をあげてその場に転がったのは、黒衣の影の方だった。とっさに体勢を立て直そうとしたものの、さらなる追撃を受けて大きくもんどり打つ。
「だ、誰だ!?」
マントに隠れた顔から、誰何の言葉が洩れた。
低くて渋い、男の声だった。
「──そこまでだ」
淡い月光に照らされて、しなやかな体躯の影が伸びる。
宵の中でも目立つアイスブルーの目に冷たく睥睨され、リオネルの構えた剣の射程圏内にとらえられて、黒衣の男は身震いした。
「お……王弟殿下……?」
リオネルの剣技は精到で無駄がなかった。型にはまった剣術ではなく、常日頃から揮っているとわかる実用的な太刀筋だ。
「な、なぜここに……!?」
わななく視野に映ったのは、リオネル一人ではなかった。彼が庇うようにして背後に守っているのは、天使のような美貌の皇女。
「アンジェラ皇女殿下まで……? どうして……!?」
尋ねた声には答えずに、アンジェラは美しい頤を引いた。
「やはり……あなただったのですね……」
リオネルは剣を持つ手を緩めないまま、もう片方の手で男の手燭を拾い上げた。先ほどメイドを襲う直前、男が自ら地面に置いたものだ。
煌々としたあかりを突きつけられて、男はとっさに顔を伏せたが、人相はしっかりと判別できた。
皺の寄った眉間。白いものの入り混じった髪。革手袋からのぞく手首からも、初老といっていい年齢がうかがえる。
「──テュレンヌ公」
王妃オルタンスの父にして、国王ナタンの宰相を務める重臣──テュレンヌ公爵だった。




