第56話 「ジル」
十五年前、無我夢中で挑んだ禁術が成功したことをリオネルは知っていた。
なぜならリオネルは隻眼のままだったからだ。
聖女の力と同じだ。治癒の力を注いで病気や怪我を癒すことができれば、その反動は聖女本人に返ってくる。治癒の効果がなければ反動もない。
同様にリオネルが使った禁術もまた、成功しなければ犠牲を払うことはない。だからリオネルの左目が失われたままなのは、ジュリエットの魂が無事に転生したことを意味していた。
「ジルが世界のどこかに生まれ変わっていることはわかっていた。まさか帝国の皇族とは思わなかったが……」
「リルは私の中身がジルだって気付いてたの? いつから?」
「帝国の城下町で、初めて君に出会った時からだ」
「そんな最初から!?」
アンジェラは驚いたが、そういえばあの時、自分も出会ったばかりの男がリルだとすぐ察したのだった。
考えてみれば不思議な話だ。いくら強く印象に残っていても、十歳の少年と二十五歳の青年が結びつくはずがない。
おそらくだが、リオネルの払った犠牲によって転生したおかげで、魂の根底に彼が深く刻み込まれたのではないだろうか。
(それでもリルは同一人物だもの。昔の面影があったのは確かだわ)
だがジュリエットとアンジェラの見た目はまったくの別人だ。なのになぜリオネルには見抜けたのだろう?
「私は外見がすっかり変わっているのに、よくわかったわね」
「そうか?」
「ええ。だってジルは貧相でみすぼらしいってよく言われ……」
「そうは思わない。昔も今も、君は誰より綺麗だ」
臆面もなく言われて、アンジェラは顔を赤らめた。
何と答えればいいのかわからず口をぱくぱくさせていると、リオネルは真剣な顔でささやいた。
「本当だ。君は何も変わっていない。この美しい紫の瞳……私の一番好きな色だ」
「瞳の色だけで、私だとわかったの?」
「……それに、聖痕も見えた」
「えっ!?」
「初対面で君を抱き上げたあの時……首に痣があるのが見えたんだ」
アンジェラを横抱きにした時。たまたま真上から見下ろす角度だったせいで、リオネルにはわずかに彼女の首元が見えてしまったのだ。
薔薇の花のような痣──ジュリエットにあったものと同じ、聖女の聖痕だ。
「ジルと同じ瞳に、同じ聖痕……間違いないと思った……」
言葉にできないほどの歓喜が、リオネルの全身を駆け抜けた。
ジルが生きている。生まれ変わって今、目の前にいる。
その時のアンジェラは簡素なケープ姿だったが、肌や髪はよく手入れされていて、昔のように虐げられている様子はなかった。
リオネルの願いは届いていた。ジルはきっと幸福に暮らしているのだ。
転生後のジルに邂逅したことは、リオネルにとって何よりの喜びだったが、それ以上関わる気はなかった。──その日の夕べ、皇宮の晩餐会でアンジェラと再会するまでは。
平静を装っていたリオネルだが、ジルが皇女に生まれ変わっていた事実には少なからず動揺した。
動揺はしたが──元々やる気のなかった王命の遂行は、その瞬間に捨て去った。
ジルは世界一の至宝で、地上に舞い降りた至高の天使だ。ナタンに降嫁するなどありえない。自身がどんな罰を受けようがかまわない。
そう思っていたのに……結局は彼女からの申し入れを拒みきれずにこの国に連れてきてしまったのだから、自分はつくづく彼女に弱いとリオネルは思う。ジルの紫の目に見つめられると、どうしても願いを断れなくなってしまうのだ。
リオネルはしかめた額を指で押さえた。
「しかし、まさか過去の記憶を持ったまま転生していたとは……これも禁術の弊害なのか?」
「弊害じゃないわ」
アンジェラは笑って首を振った。
「禁術のおかげよ。リルを忘れなくてよかった。あなたを覚えていられて嬉しいわ」
今度はリオネルが赤面する番だった。
そのまま吸い寄せられるように、三つの瞳が視線を交差させる。
「……ジル」
アンジェラを愛しそうに見つめたリオネルの顔は、次の瞬間、凍りつくような憎悪を滾らせた。
「君が死んだ時……私はこの国も王家も何もかも、壊してやりたくてたまらなかった……」
底冷えのする声だった。
幼いリオネルはかつて、ジュリエットの喪失に打ちのめされた。
慕ったたった一人の女性の無情な最期に慟哭し、彼女を殺したすべてを強く呪った。
愚昧な王族も、浅薄な民も、無力な自分自身も、何もかも滅ぼしてやりたいと少年は願った。
「……でも、できなかった。ここはジルが守った国だから……」
不幸な死を遂げてさえ、ジュリエットの輝きはリオネルの中に燦然と生きていた。
ジュリエットは穢濁に染まらない本物の光だった。彼女の神聖さと美しさはリオネルにとって永遠に不変のものだった。
「……君に恥じない生き方をしたかった。ジルはきっと復讐を望んでいないから」
「ええ。望んでいないわ」
アンジェラは即座に肯定した。
「私はこの国の人々に苦しんでほしいなんて思わない。私が冤罪で死んだことは、民には何の責任もないんだもの」
リオネルの手に触れて、アンジェラはしみじみと礼を言った。
「ありがとう、リル。ロシェルの人々を守ってくれて」
コライユ王国全体では綻びが目立つが、ロシェル領の民は健康そうで、子供たちも元気いっぱいだった。
リオネルはこの十五年間、領地のために尽くして生きてくれた。
すべての国民を救えたわけではないけれど、私怨に燃えて凶行に走るよりも、はるかに多くの民を守ったはずだ。
もしもリオネルがナタンと刺し違えて死んでいたなら、アンジェラはどんなにか絶望しただろう。たとえリオネル自身が満足していても、立ち直れないほど悲しんだだろう。
「ありがとう、リル。私の気持ちをわかってくれて」
膿んで、腐って、報復に囚われるよりも、リオネルはずっとジュリエットの望む生き方をしてくれた。
「不思議……リルの方が私よりも年上になってしまったのね……」
リオネルの手は固くて大きい。前世では年下の少年だったのに、今では年上の男性になってしまったのだと思うと感慨深かった。
──今さらだが、と前置きしてリオネルは肩をすくめた。
「……君を何と呼べばいいだろうか?」
ジュリエットなのか、アンジェラなのか。どう呼ぶべきかを迷っているらしい。
アンジェラは花のように笑んだ。
「ジルと呼んで」
Angelaの愛称は「アン」や「アンジー」が多いが「ジル」もある。
ジュリエットでありアンジェラでもある今、どちらの名も意味する「ジル」という呼び名がしっくりきた。
リオネルは真正面からアンジェラを見すえると、
「──ジル」
そう、万感をこめて呼んだ。
「……ジル……!」
つないだ手に口づけが落ちる。
まるで宝物に触れるような優しいキスにもまた、万感がこもっていた。
「ジル、会いたかった。ずっと君を想っていた……」
あたたかな幸福感が、アンジェラの心にこみあげた。
「私も……リル、ずっとあなたに会いたかった……」




