第55話 あなたの愛に包まれて
リオネルは愕然とした。
「何だ、これは……!」
ナタンの執拗な叱責からようやく解放された後。アンジェラの後を追って外殻塔に向かった先でリオネルが見たのは、目を疑うような異様な光景だった。
図書棟の中はやけに静かで、物音ひとつしない。それもそのはず。司書たちは一人残らず眠り込んでいたのだ。
「おい、何をしている! 皇女殿下はどうした!?」
リオネルは司書たちを揺すったが、誰も起きる気配はなかった。
外傷はない。ただ昏々と眠っているだけのようだ。
「まさか……」
リオネルは血相を変えて、書架の奥へと進んだ。
案の定、皇女付きの護衛たちもその場に行き倒れていた。司書たちと同じく負傷はない。呼吸も正常だが、深く寝入っていて目を覚まさなかった。
栄えある帝国の騎士が任務中に熟睡など考えられない。
「──皇女殿下!」
リオネルは立ち上がり、脇目もふらずに駆け込んだ。十五年ぶりに入ることになる、閉ざされた禁室へと。
「……!」
アンジェラは室内にひとり、静かにたたずんでいた。
そっと振り返り、リオネルの姿を見とめた刹那。あどけない少女の頬に薔薇色が灯った。
星をちりばめたようなきらめきが、シャイニーブロンドの髪からこぼれて落ちる。透き通るような肌が輝きを放ち、くっきりとした長い睫毛がまたたいて、つぶらな紫色の瞳を彩る。
リオネルは思わず呼吸を止めた。
「……皇女……殿下?」
アンジェラは名前の通り天使のような美少女だった。三人の皇子たちが溺愛するのも無理はないほど愛らしい、美貌の皇女。
しかし今、目の前にいるアンジェラを羽化した蝶とするならば、今までの彼女は不完全で不格好な蛹でしかなかった。
アンジェラの姿は何も変わっていない。変わらないのに、明らかに違う。
このわずかな時間で十五年もの時を旅してきたかのような深みをにじませながら、アンジェラは花の蕾のような唇をそっと開いた。
「リル……」
リオネルの全身が粟立った。
そう呼ばれるのは、実に十五年ぶりのことだったからだ。
何を頭で考えるよりも先に、リオネルの口ももう、その名を紡いでいた。
「……ジル……」
リオネルはとっさ、鎖でつながれた黒色の本に視線をやった。
「視たのか……!?」
「視たわ。十五年前、あなたがしてくれたことを全部」
アンジェラは背筋を伸ばして、凛とリオネルを見上げた。
「ジル、泣かないでくれ……」
そう請われて初めて、アンジェラは自分が泣いていることに気がついた。
透明な雫が眦を落ちて、ぽろぽろと頬をつたった。
「リル、どうして……?」
もしも十歳のリオネルが少しでも気圧されていたなら、あの禍々しい闇の手はリオネルの全身を食い尽くしていただろう。彼の願いなど聞き届けることなく、触媒ごと彼を滅ぼしていたことだろう。
封じられた禁術と対峙するということは、それほどまでに危険を伴う行為なのだ。
もしもリオネルにわずかでも躊躇や逡巡があれば、彼は目のみならず命まで無残に奪われていたかもしれない。そう考えるだけで怖くて、涙が止まらなかった。
「どうしてあんな無茶なことをしたの!?」
「あのくらい、何でもない」
「何でもないわけが……!」
異形の存在に生きたまま眼窩を刳られるなど、無謀以外の何物でもない。
アンジェラは心を痛めずにいられなかったが、リオネルは平然とかぶりを振った。
「君が幸せになれるのなら、何を捧げてもかまわない」
王家のために仕えてきたジュリエットを、無慈悲にも王家は断罪した。
民のために尽くしてきたジュリエットを、恩知らずにも民は迫害した。
だからせめてリオネル一人だけは、彼女の幸せを祈りたかった。
こんな非道な国と残酷な衆愚から解放され、どこか別の国に生まれて、今度こそ彼女に幸福になってほしかった。誰よりも恵まれた人生を歩んでほしかった。
「安いものだ。君がしてくれたことに比べたら、あの程度のことは何でもない」
リオネルは一片の迷いもなく言い切った。
本当はジュリエットの命を守りたかった。彼女を生きたまま救いたかった。「必ず助ける」と誓った言葉は心からの本音だった。
それなのに愛した女性との約束ひとつ守れない、幼くて無力な自分が悔しくてならなかった。
だから目くらい何でもない。──手でも足でも命でも、彼女のためなら喜んでさし出したのだから。
「リル……」
アンジェラは手を固くにぎりしめた。
「……私は今まで……自分が罪と憎しみに包まれて死んだと……思っていたの……」
ジュリエットは魔女の烙印を押されて刑死した。
人々に石を投げられ、怒声に取り巻かれ、恥辱に塗れてみじめに死んだ。──ずっとそう思っていた。
そうではなかった。
「私は、あなたの愛に包まれて生まれたのね……!」
ジュリエットの短い生涯の最後にあったのは、リオネルの無償の愛だった。
アンジェラはリオネルの祈りに守られて、この世に生を受けたのだ。
「……私の願いは叶ったか?」
リオネルはためらいがちに問いかけた。
「君はちゃんと……幸せになれたのだろうか……?」
「ええ」
アンジェラは自信満々に答えた。
「世界で一番幸せな場所に生まれたわ」
何しろサフィール帝国の皇族として育ったのだ。この世で最も安全で幸福な場所にいたと胸を張って言える。
父は……少し頼りないけれど、それを補って余りあるほど、母と三人の兄たちが愛してくれた。
誰もが羨む最高の地位と、何不自由なく大切にされてきた日々。
世界中を探したって、自分ほど恵まれた女の子はいないと断言できた。
「……よかった……」
リオネルの残った右目が、心からの安堵に細められた。
「本当によかった……ジル……」
アンジェラは声を詰まらせた。
──こんなに大きな愛を知らない。
自身の犠牲を厭わず、見返りを求めない、献身的な愛を知らない。
リオネルが片目を失った心苦しさと申し訳なさは消えないけれど、それ以上に心に満ちるのは感謝の思いだった。
これほどの想いを捧げてくれた彼への感謝が、尽きることなくアンジェラの胸にあふれた。
「ありがとう。リル……」




