5
「……待て。違う、毒ではない。これは……なんだ、この複雑な味わいは!」
ジャイルズはカッと目を見開いた。
「口に入れた瞬間、様々な香草の香りが鼻を抜け……その直後にピリッとした心地よい刺激が舌を刺す! だがそれだけじゃない。大量の野菜が溶け込んだ強烈な甘みと、肉の深いコクが押し寄せてくる! 何より、この刺激的なソースが、温かい穀物に異常なほど合う!!」
彼は二口目、三口目と猛然とカレーをかき込み始めた。
「美味い! なんだこれは、美味すぎる! 肉が口の中で溶けたぞ!? いつも俺たちが食っているゴムのような塩漬け肉と同じ肉だとでもいうのか!?」
その姿を見た瞬間、後ろに控えていたメイドや兵士たちの理性が吹き飛んだ。
「わ、私にも! 私にも一杯ください!」
「俺もだ!」
「はいはい、順番に並んでくださいね! ご飯の大盛りも無料ですよ!」
私は満面の笑みで、次々と皿にカレーを盛り付けていった。
『賄い』という名の福利厚生。
美味しい食事は、人の心を一瞬で解きほぐし、忠誠心を生み出す。
カレーを口にしたスタッフたちは皆、一様に目を見開き、恍惚とした表情で皿を舐めるように平らげていく。
「ルミナさん、あんた女神か……!」
「明日から、ルミナさんのためなら骨身を削って働きます!」
ふふん。計画通り。
これで、宮廷の実働部隊は完全に私の手駒になった。もしあの我儘な皇帝が私をクビにしようとしても、彼らがストライキを起こして阻止してくれるだろう。
私が巨大なしゃもじを手に、上機嫌で配膳を続けていた、その時だった。
「――貴様ら!! 私の宮殿で、一体何の騒ぎだ!!」
ピタリと、中庭の空気が凍りついた。
全員がカレーを口に運んだまま、声のした方角を振り向く。
そこには、金糸の刺繍が入った豪奢な上着を羽織り、肩で息をしている若き皇帝――レオンハルトの姿があった。
その後ろには、いつも通り胃を痛めたような顔のクラウス様もいる。
「へ、陛下……!!」
全員が慌てて皿を置き、その場に膝をついて頭を垂れた。
レオンハルトは集まった群衆と、彼らが持っている皿、そして大鍋の前で仁王立ちしている私を交互に睨みつけた。
「ル、ルミナ! 貴様、食事の時間になっても私の部屋に食事が運ばれてこないから、わざわざ足を運んでみれば……! なんだこの、宮殿中を包み込む暴力的な匂いは! 私を差し置いて、下々の者たちと宴会とはいい度胸だな!」
相変わらずの怒鳴り声だが、私は彼の視線が、私が持っているカレー皿に釘付けになっているのを見逃さなかった。
しかも、彼の喉仏が先ほどからひっきりなしに上下している。
(匂いにつられて部屋から飛び出してきたくせに。本当に素直じゃないわね)
私は悪びれる様子もなく、ペコリと一礼した。
「申し訳ございません、陛下。これは『賄い』。つまり、宮廷で働くスタッフのための福利厚生の食事です。陛下のお口に合うような高尚なものではございませんので、後ほど陛下の食事は別にお作りしようかと」
「な、なんだと……?」
レオンハルトはピクッと眉を吊り上げた。
「これだけ強い匂いを放ち、私の近衛騎士団長に皿を舐め回すような真似をさせておきながら……私には食わせないと言うのか!?」
「え? いや、ですから、これは平民向けの……」
「黙れ! この宮殿にあるものは全て私のものだ! 貴様が作ったその茶色い泥水も、私が一番に味見をする権利がある!!」
また泥扱いか。本当に表現の語彙力が貧相な皇帝である。
「……クラウス。そこの騎士が持っている皿を奪え。私が食う」
「へっ!? 陛下、下々の使う皿を……!」
「では、鍋から直接食うまでだ!」
本気で鍋に顔を突っ込みかねない勢いでずかずかと歩いてくるレオンハルトに、私は慌ててストップをかけた。
「わ、わかりました! わかりましたから落ち着いてください! 陛下には特別仕様の『皇帝専用カレー』をお作りしますから!」
レオンハルトは「ふんっ」と鼻を鳴らし、腕を組んで私の前に仁王立ちした。
「……五分だ。五分で用意しろ。それ以上待たせたら不敬罪で首を刎ねる」
脅し文句のくせに、その後ろに「早く食べたい」という尻尾が見え隠れしているのが、なんだか可愛く見えてきた。毒気を抜かれた私は、苦笑いしながら厨房の奥へ戻った。
ただのカレーライスでは、文句を言われるかもしれない。
せっかくなら、昨日彼が感動した「カツ」の要素と、さらに暴力的な旨味を掛け合わせてやろう。
私は深めの純白の陶器の皿を取り出し、銀シャリ草を上品なドーム型に盛る。
その上から、熱々の特製ロックボアカレーを波々と注ぐ。
さらに、昨日のおさらいで手早く揚げておいた『炎牛の一口カツ』を三切れトッピング。
極めつけは、厨房にあった『月光のチーズ』。これをルゥの上にたっぷりと削りかけ、魔道コンロのバーナー機能を使って表面にサッと焦げ目をつける。
ジュワァァッ……という音と共に、チーズがとろけ、焦げた香ばしい匂いがカレーのスパイシーな香りと混ざり合う。
さらに中央に、黄金樹の卵で作った「温泉卵」をそっと乗せれば……。
「完成。『特製・炎牛カツと温玉カレー』です」
私がその皿をレオンハルトの前に差し出すと、彼は言葉を失ったように目を見開いた。
黄金色のチーズがとろけ、カツの油が輝き、中央でプルプルと揺れる温玉。
それはまさに、カロリーと旨味の暴力の結晶だった。
「……なんだこの、罪深い見た目は」
「さあ、冷めないうちにどうぞ。スプーンで、全てを混ぜながらお召し上がりください」
レオンハルトは無言で銀のスプーンを手に取った。
カツを一口大に切り、とろけるチーズとカレーをたっぷりと絡め、さらに温玉を崩して黄身をまぶす。
そして、覚悟を決めたように口へと運んだ。
パクッ。
その瞬間。
レオンハルトの時間が止まった。
碧眼が極限まで見開かれ、スプーンを持った手が空中でピタリと静止する。
「……っ!!」
彼の脳内で、スパイスの刺激、ロックボアの深いコク、チーズのまろやかな塩気、カツのサクサクとした香ばしさ、そして温玉の濃厚な甘みが、一斉に大爆発を起こしたに違いない。
「……か、辛い! だが……なんだこの、次から次へと押し寄せてくる旨味の波は!」
彼はハァッ、ハァッと息を荒げながら、二口目を口に放り込んだ。
「スパイスが舌を焼く! なのに、チーズと卵がそれを優しく包み込み、そしてカツから肉汁が……! くそっ、食べる手が止まらん!!」
カチャカチャカチャカチャッ!!
先ほどのジャイルズ騎士団長以上の猛スピードで、皇帝陛下がガツガツとカレーをかき込み始めた。
額からは大粒の汗が吹き出し、美しく整えられていたプラチナブロンドの髪が乱れるのも気にしない。
ついには、暑苦しくなったのか、羽織っていた豪奢な上着をバサリと脱ぎ捨て、ワイシャツの胸元を乱暴に引きちぎるように開けた。
チラリと覗く、鍛え上げられた胸板と滴る汗。
普段の冷徹な皇帝からは想像もつかない、あまりにも無防備で、本能のままに食事を貪る姿。
(……あら、ちょっとセクシーじゃない。目の保養ね)
などと前世のアラサーの余裕で眺めていると、あっという間に彼はお皿を舐めるようにして完食してしまった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
レオンハルトは荒い息を吐きながら、スプーンを皿に置いた。
その顔は、激しい運動をした後のような紅潮に染まり、だがどこか清々しい満足感に満ちていた。
「……お粗末様でした。お口に合いましたか?」
私が意地悪く微笑んで尋ねると、レオンハルトはギロリと私を睨みつけた。
「……貴様。私にこんな、汗だくになるような下品な料理を食わせるとは……」
「あら、お嫌いでしたか?」
「……っ、誰が嫌いと言った!!」
レオンハルトは顔を真っ赤にして叫んだ。
「美味かった! 悔しいが、昨日のカツ丼よりもさらに美味かった! こんなに心と体が満たされた食事は、生まれて初めてだ!!」
堂々たる『美味い』宣言。
周囲で見守っていたスタッフたちから「おおぉーっ!」とどよめきと拍手が湧き起こる。
「だがな、ルミナ!」
レオンハルトはビシッと私を指差した。
「こんな美味いものを、私より先に下々の者たちに食わせるとは言語道断だ! 次から新しい料理を開発した時は、必ず一番最初にこの私のところに持ってくること! わかったな!!」
それはつまり、「お前の料理の完全なファンになった」という彼なりの不器用な告白だった。
「はいはい。承知いたしました、皇帝陛下」
私がクスクスと笑いながら優雅にお辞儀をすると、レオンハルトはバツが悪そうにそっぽを向き、しかしその口元には、微かに満足そうな笑みが浮かんでいた。
こうして、「賄いカレー事件」をきっかけに、私は宮廷の全スタッフの絶対的な支持を獲得し、同時に皇帝の胃袋を完全に掌握することに成功した。
「さーて、スタッフの士気も上がったことだし。明日は本格的なフレンチのフルコースでも仕込もうかしら」
私の異世界での「超絶ホワイトで美味しい職場作り」のプロジェクトは、まだ第一フェーズを完了したばかりだ。
これから、この偏食皇帝と腹ペコな仲間たちに、私の料理の引き出しの底の底まで見せつけてやろうじゃない。




